永樂和全
この色絵七宝文の作品は、器面に布をあてがい、絵付けを施すという、和全の独特な技法が用いられました。盃洗は酒席で盃を洗うため水を蓄えておく器ですが、目下の人が目上の人に御返盃をする際に、盃をすすぐのに使われました。
永樂和全(1823~96)は、茶の湯の土風炉を作る土風炉師・西村善五郎家の12代目で、永樂保全(1795~1854)の長男です。幼名は仙太郎。母は2歳の時に没します。和全は20歳代で早くも父・保全を賞嘆させるほどの作陶の才能を発揮します。1843年(天保14)父・保全が隠居すると、善五郎家の当主となり12代善五郎を襲名します。しかし、49年(嘉永2)保全が養子とした宗三郎と協力して善五郎家と善一郎家の統一を目的とした家政改革を行うと、善五郎家は一本化されました。和全の号は、加賀九谷に赴き作陶を行った前後の1865年(慶応元)、66年(慶応2)頃から用いられます。父・保全は、晩年に各地の窯に赴き、その技法を伝えますが、各藩の殖産興業と相まって、その技法が地方に根付き地方窯の繁栄へと繫がりました。和全も加賀大聖寺藩に招かれ、その技法を伝えました。
和全の作陶活動は、おおまかに以下の4期に区分されます。
- 1852~65年(嘉永5年~慶応元年) 野々村仁清の御室に本格的な登窯を築いた御室永樂窯時代
- 1865~70年(慶応元12月~明治3年) 加賀大聖寺藩の招きで山代村の九谷本窯へ赴き作陶した九谷永樂窯時代
- 1872~77年(明治5~10年) 1871年(明治4)に家督を長男・得全に譲り、西村姓から永樂姓に改姓して後、裏千家の茶人・鈴木利蔵の招請により三河国岡崎で作陶した岡崎永樂窯時代
- 1877~82年(明治10~15年) それまでの油橋詰町(現・上京区)を離れて京都東山の下河原鷲尾町に居を移した菊谷窯時代
御室永樂窯時代には、呉須赤絵、古染付、祥瑞、金襴手などの写しでは保全以上に本歌に迫ったといわれています。しかし、和全の真価はこうした茶の湯道具の写しものに加えて、独自な作風を創造したことにあります。例を挙げれば、御室永樂窯時代以降にみられる、器面に布をあてがい絵付けを施した独自の布目手の上絵付け皿や、「色絵七宝文盃洗」(東京国立博物館蔵)です。九谷永樂窯時代に制作した赤絵金彩は、飯田屋八郎右衛門や九谷庄三の赤絵金襴手にはない、金彩の中に赤地を表現するという和全によって生み出された描法です。保全が金泥を用いていたのに対し、和全は金箔を用いて焼き付ける技法など、和全の作品には独自の陶技を駆使した華麗な意匠が見られます。また、岡崎永樂窯時代には赤絵、染付などの皿、鉢、御飯茶碗の日常食器を量産し、その中でも瀬戸蛙目土を用いたコーヒー碗、砂糖壺、スープ皿などを制作し、明治維新以来の茶の湯の衰微の中でも時勢への対応を積極的に行って、保全の残した負債に苦しみながらも永樂家を維持し基盤を残しました。
晩年は別号を使用して茶の湯の復興を背景に和全の作陶の理想であった京焼の仁清・乾山・光悦の芸術を追慕した茶陶を発表し、伝統の京焼の再興に尽力します。中でも注目されるのは、単純化された斬新な意匠と華麗な色彩に特色をみせる仁清写しの作品です。ここには明らかに明治時代の茶道界における茶会形式の変化に即応する、和全ならではの創意がみられます。
七代錦光山宗兵衛作 色絵金襴手鳳凰文飾壺
この京薩摩は、1893年(明治26)コロンブスの新大陸発見400年を記念して開催されたシカゴ万国博覧会に出品された七代錦光山宗兵作の最高傑作です。底には、金彩で「大日本京都 錦光山造之」と銘があり、「錦光山造」の印が押されています。しかし、博覧会で賞牌を受賞したのは竹本隼人、宮川香山の作品でした。とくに竹本隼人作「紫紅雄瓶」は、世界的に流行しつつあった清朝磁器の高い技術に迫るものとして高く評価されました。これは、ジャポニスムの終焉を示すものです。
幕末・明治の京焼、粟田口焼
粟田口焼は、18世紀初頭に青蓮院領今道町・分木町・東町・南禅寺領小物座町一帯に、将軍家御茶碗師三文字屋九左衛門を筆頭に13軒の窯元と20軒の素焼窯をもつ陶家が軒を並べ最盛期を迎えます。しかし、18世紀中頃には三文字屋が没落し、1756年(宝暦6)には錦光山(きんこうざん)二代茂兵衛と岩倉山吉兵衛が将軍家御用を拝命し、新たなる展開を迎えます。99年(寛政11)には、両窯元の錦光山、岩倉山を中心に、宝山、帯山、暁山の6軒の窯元と14軒の五条坂焼と対立を深め、1824年(文政7)には、粟田口が従来使用していた岡崎の陶土を五条坂が流用して粟田口焼と類似の製品を作り出したことを巡り激しい争論が起こりました。対立か長引き、五条坂清水の諸窯で生産の主流が次第に磁器へ移行してからも、粟田口焼では伝統的な陶器生産が継続しました。維新後は、旧幕時代の庇護者を失い、海外貿易に活路を求めて多量の色絵陶器を欧米に輸出し、京薩摩の名で好評を博します。中でも7代錦光山宗兵衛、帯山与兵衛、丹山青海、安田源七・三村源兵衛らが活躍しますが、大正期の貿易不振に耐え切れず次第に衰微し、第二次大戦後は数件の陶家を残すのみになります。
明治の窯業は、政府の提唱した殖産興業、富国強兵のスローガンのもとに、輸出産業のエースとして活躍します。明治初期には、茶と生糸に次ぐ外貨獲得の主力産業となります。そうした業況のなかで、錦光山の六代宗兵衛(1823~84)は1837年(天保8)に家督を継ぎ、1865~68年(慶応年間)に海外輸出をはじめます。姓を錦光山と改名したのは維新後のことです。1870年(明治3)には薩摩焼の彩画法を開発し、内外の博覧会で褒賞を受賞します。七代宗兵衛(1868~1928)は父・六代宗兵衛について製陶を学び、父の歿後に家督を継ぎます。初期には、父が開発した薩摩焼色絵彩画による花瓶、香炉、装飾品など装飾性豊かな貿易陶磁を制作していますが、1897年(明治30)頃より、それまでの粟田口地域にはなかった輸出向け陶器における日用品の制作に従事し、意匠、技術の改革を進めます。そのため国内各地の窯場や欧米へも赴いて熱心に研究を重ねます。1900年(明治33)のパリ万博博覧会では現地を視察した際に欧米で流行していたアール・ヌーヴォー様式を知り、1903年(明治36)の内国勧業博覧会ではその様式を導入した花瓶を出品しています。海外の万国博覧会での受賞歴も多く、1889年(明治22)のパリ万国博覧会では銀牌、1990年(明治33)万国博覧会では金牌、1903年(明治36)ベルギーのリェージュバンコク博覧会ではグランプリを受賞します。また、京都の陶磁器界内部の統一にも尽力し、1894年(明治27)の粟田・清水五条坂が合同した統一組合の京都陶磁器商工組合の結成には、粟田から初代伊東陶山とともに代表格として参加し、初代頭取となります。このほか、1906年(明治39)の京都市陶磁器試験所の開設にも努め、1903年に結成された日本で最初の陶磁器意匠研究団体である遊陶園に参加するなど、明治後期の京都陶磁器界に大きな足跡を残しました。