やきもの曼荼羅[71]日本のやきもの53 萬古焼(六)

四日市萬古

四日市萬古 数印刻文急須(海蔵庵窯) 高6.8センチ 口径5.6センチ 底径5.1センチ 胴径8.2センチ パラミタミュージアム蔵

 海蔵庵窯の「数印刻文急須」は、赤土を用いて手捻りで作った急須で、底部と胴部が腰部で継ぎ合わせて作られ、胴部一面に「萬古」「萬古不易」「有節」「日本有節」「千秋有節」などの数印が装飾文様として使われています。

 四日市萬古は、1829(文政12)年、四日市東阿倉川の浄土宗唯福寺の住職・田端教正(たばたきょうしょう)と信楽の陶工・上島庄助が同所において信楽風のやきものを作ったのが、海蔵庵窯の始まりと言われています。茶器の他、日常雑器を中心に焼成し、代官・多羅尾(たらお)氏の御用窯として販売されましたが、慶應年間(1865~68)に廃窯となりました。

 その後、四日市末永村(現・四日市市末永町ほか)の村役・山中忠左衛門が有節萬古に魅せられ、1853(嘉永6)年に自ら窯(山忠窯)を築き、海蔵庵窯の田端教正に教えを乞いながらやきもの作りを始めます。しかし、有節萬古に迫るような作品は出来ませんでした。山中忠左衛門は萬古焼を企業として拡大し、困窮した村人たちに職を与えて救済しようと考え、1870(明治3)年に量産を開始します。この四日市萬古は、四日市市垂坂山の陶土を使い、豊富な人手と木型・土型による成形の容易さから量産されました。また、四日市港から東京へ汽船が運航するようになり、旅人の往来や貨物が四日市に集中したことで需要が増大し、全国に売られていきました。こうした地の利もあって、1871(明治4)年に桑名萬古の堀友直が四日市に移ってきて窯を築き、山忠窯とともに萬古焼の生産を軌道に乗せました。この両窯の活動によって四日市の町中に次々と窯を設ける人たちが現れ、町は窯業地としての活気を呈しました。

 四日市萬古の生産が拡大すると、従来通りの店頭売りだけでは製品をさばくことが出来ず、生産過剰は目にみえていました。この状況を打開したのが川村又助です。1875(明治8)年、萬古問屋を開設して一手に販売に乗り出し、四日市港から船便で全国へ運搬・販売するとともに、海外輸出をめざして外国人の好みや外国事情を調査し、見本を送るなどして努力を重ねました。翌1876年には川村窯を自ら開き萬古焼の製作を始めました。四日市萬古は企業としての量産品の他に作陶的に優れた人たちが現れ、独自の技術を競いました。制作は手捻り・木型・轆轤の三方法が用いられています。これによって、「急須といえば萬古」と知られるようになりました。

 手捻りによる製作は渡辺自然斎(蓮隠居)・岡本城峯(無眼楽)・名人三助と称された山本利助(萬里軒)・伊藤豊助(晩成堂)・小川半助(円相舎)、そのほかに伊藤嘉助(日出野)・富山士郎(黒木舎)たちがいました。木型作りの製作は伊藤庄造、伊藤弥三郎(八三)、中山孫七、花井新兵衛たちがおり、谷村太右衛門(合羽屋)は各種の土を練り込み、友禅染めのような文様として胴部の一部に切り填める方法を考案しました。轆轤造りは名人・益田佐造がおり、そのほか益田仙吉・圦山開之助・石田栄吉(栄山)・後藤隆政がいました。このほか、伊勢型紙による文様や、「ヨラズサワラズ」と呼ばれる専売品の生川善作、絵師の田中百桑・水谷百碩・坂井桜岳たちがそれぞれ有名です。

 こうして隆盛を誇ってきた四日市萬古の生産は、明治中頃になると垂坂山の白土が枯渇し、垂坂山周辺にある赤土を用いた茶褐色の焼き上がりの赤萬古の急須が主流となっていきました。明治末年には不況による需要の減退で、四日市萬古も減産を余儀なくされ、経営不振に陥りました。この頃、四日市鳥居町に窯を持つ水谷寅次郎は、新製品の開発に努め、硬質磁器の研究を続けていました。寅次郎は多年の研究に私財を傾け、陶胎素地に磁器の釉薬を施した半磁器製品を開発し、その完成した年が大正改元だったため大正焼と命名されました。この大正焼は地肌が黄濁色を呈し、磁器とは異なるその味わいが人気を博しました。また、磁器に比べて低火度で焼成できることからコストが安く、寅次郎がその技術を公開したため次々に大正焼が拡がり、再び業界は活気を取り戻しました。昭和に入ると、四日市でも本格的な磁器生産が開始され、窯業地としての基盤が確立され、今日の地場産業としての発展をみました。

四日市萬古 金彩山水文狸鈕急須(小川半助作)

四日市萬古 金彩山水文狸鈕急須(小川半助作)高7.2センチ 口径6.6センチ 底径4.6センチ 胴径11.2センチ パラミタミュージアム蔵

 小川半助は伊藤豊助、山本利助と並んで三助と呼ばれ、家業の煙草屋にちなんで「煙草=えんそう」から圓相舎(えんそうしゃ)と名付けられました。精良な細かい粘土が用いられて極めて薄造りに手捻りされ、指頭痕が波文のように並列して残されています。その指頭痕により無釉の地肌に細かい起伏の造形ができ上がり、独特の雰囲気を醸し出しています。さらに地肌を生かすように色絵・金彩文様の山水図が描かれ、紐(つまみ)には狸が付けられています。

伊勢のやきものと萬古焼技法の伝場

 伊勢のやきものは萬古名を語尾に付けて呼ばれる場合が多いが、別個に呼ばれるやきものとして時中焼(ときなかやき)・桜焼(さくらやき)・菰山焼(こざんやき)があり、その他にも陳明焼・久居焼・神路焼・五十鈴川焼などがあります。さらに萬古焼の製法は東日本地域に伝播し、美濃萬古(温故焼・岐阜県大垣市)・足利萬古(栃木県足利市)・松沼萬古(栃木県小山市)・二本松萬古(福島県二本松市)・鳴山萬古(福島県田島町)・秋田萬古(秋田県秋田市)などが存在します。また、再興萬古焼に努めた作家として、大塚香悦・加賀月華(かがげっか)・森翆峰(もりすいほう)・人見洞英・内田松山などが知られています。

 時中焼は古くから萬古・安東・陳明と並んで伊勢の四窯と伝えられているもので、細工物や写しものにみるべきものがあり、「時中」「寸丈」「和泥斎」などの刻銘があります。
桜焼は四日市市桜町に石川平八郎貞永が薩摩焼の鮫肌焼に触発されて1844(弘化元)年に始めた鮫肌のやきものです。
菰山焼は三重県三重郡菰菲野町の吉井吉造が嘉永年間(1848~54)に始めたもので、茶器・酒器・花器などの焼き、楽焼の茶碗に優れたものがあります。