やきもの曼荼羅[42]日本のやきもの24 里帰りした明治伊万里

再び世界で脚光を浴びた明治伊万里

 18世紀以来、有田焼が再び世界で脚光を浴びるのは万国博覧会(以下、万博)を通じてです。1867年(慶應3年)の第2回パリ万博には徳川幕府、薩摩藩、佐賀藩が参加しており、佐賀藩は精錬方の佐野常民(つねたみ)など5人を派遣しています。この時の経験が次の1873年(明治6年)のオーストラリアのウィーン万博で生かされ、佐賀藩の人材が活躍します。博覧会事務局総裁は大隈重信、副総裁は佐野常民でした。この万博によって、日本の工芸品が高く評され、やがてジャポニズムの流行へと繋がっていきます。
また、1871年(明治4年)岩倉具視を全権大使として、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文といった新政府の枢要な人物が1年10カ月もの間、欧米に派遣されます。その際の報告書「欧米回覧実記」は、同行した旧佐賀藩士・久米邦武によるものです。彼の父親・久米邦郷は有田皿山代官であり、邦武は帰国後、有田焼の輸出振興に一役買い、窯元を統合させて「会社」設立を促します。のち「精磁会社」設立の折には出資者の一人としてその名を留めています。ちなみに、洋画家の久米桂一郎は邦武の息子です。彼はフランスに渡りラファエル・コランに師事、コランのもとで黒田清輝と知り合い一緒に帰国し、2人そろって東京美術学校教授に就任しています。

 明治の窯業は、政府の提唱した殖産興業・富国強兵のスローガンの下に、茶と生糸に次ぐ外貨獲得の輸出産業のエースとして活躍しました。しかし、国家を支える産業として活躍したこととは裏腹に、その美術的な評価は甚だ低くかったといえます。その理由の一つとして、明治の輸出伊万里を30年にわたり収集研究している蒲地孝典氏(ギャラリー花伝代表)は、「明治伊万里の優品磁器が注目されてこなかったのは、国内で目にする機会がほとんどなかったことが一つの要因だ」と分析されています。

「香蘭社」と「精磁会社」

 江戸後期、佐賀藩から海外への貿易許可を得ていた有力窯元の深川栄左衛門、深海墨之助、辻勝蔵、有力商人の手塚亀之助の四件が、1875年(明治8年)に合本組織「香蘭社」を設立します。初代社長は八代・深川栄左衛門です。ちょうど明治政府の輸出振興政策や万博出品の政策とうまく合致し、有田でも香蘭社製の磁器が海外で高い評価を得ました。「香蘭社」は1879年(明治12年)には「香蘭合名社(現・株式会社香蘭社)」と「精磁会社」に分かれますが、どちらも明治工芸の粋を集めた優品が作られています。深川は1870年(明治3年)に日本初の磁器製碍子(がいし)製造を依頼されて開発に成功し、東京から長崎間の電信線架設に使用されました。「香蘭社」は、その碍子が、経営の基盤にありましたので、「精磁会社」は1897年(明治30年)に終焉しますが、「香蘭社」は存続し、1894年(明治27年)に創業した「深川製磁」とともに高級磁器メーカーとして存続します。一方「精磁会社」は、有田きっての名工と誉れ高い深海家、禁裏御用窯元の辻家、ウィーン万博で渡欧しヨーロッパの製陶技術を学んだ川原忠次郎が加わり、当時の有田焼最高レベルの陶工たちによって作品が作られました。その「精磁会社」の盛衰をつづった蒲地氏の著書『幻の明治伊万里 悲劇の精磁会社』が日本経済新聞社から刊行されています。

南画家・高柳快堂(たかやなぎかいどう)の陶画

色絵南画大皿 香蘭社 陶画:高柳快堂 1878年(明治11年) 径63センチ

 1877年(明治10年)と1881年(明治14年)の内国勧業博覧会に有田の白川小学校の生徒の作品が出品され、指導した校長の江越礼太にも賞状が授与されました。欧州から里帰りした「色絵早春雪渓図大花瓶」(高77センチ、香蘭社)も、その内国勧業博覧会に出品された作品です。この気韻生動を感じる自然の景色を見事に描いたのが高柳快堂です。南画家・高柳快堂(1824~1909)は久保田村(現・佐賀市久保田町)元小路の八田盛章の三男として生まれ、のち高柳権太郎の養子となりました。読売新聞社を創設した2代社長・本野盛亨(もとのもりみち、1836~1909)は従兄弟で、外務大臣・本野一郎の叔父に当たります。南画を長崎の僧・釋鉄翁(しゃくてつおう)に学び、大阪の篠崎小竹・岡田天州に師事し詩文を収めました。のち中村竹洞・田能村直人に師事し、心技ともに深まり南画の名家として並ぶ者がなかったといわれています。有田の白川に居住し、子弟の教育に勤める傍ら、陶画を描き山水や草花の妙を極めました。京都南画学校の副校長を務め、長男・豊三郎は3代読売新聞社長となりました。写真の「色絵南画大皿」は香蘭社製の作品で、1878年(明治11年)に快堂が山水画を描いた径63センチの大皿です。また「南画三足皿」は「色絵早春雪渓大花瓶」と同年代(1881年)の作品で、皿の裏面には「白川校製」の銘款がある貴重な作品です。

南画三足皿 銘款「白川校製」 陶画:高柳快堂 1881年(明治14年) 径17センチ

明治伊万里の伝道師・蒲地孝典氏

 2021年9月30日付の「日本経済新聞」に蒲地氏の「和魂洋才 明治伊万里の粋」という記事が掲載されています。そこには「明治初期に輸出された伊万里焼を初めて目にしたときの衝撃は今も忘れられない。洗練された日本絵画がそのまま焼き物になっているようだった。江戸時代に作られた有田焼の一種、古伊万里が珍重される陰に、こんなにも素晴らしい製品があるのかと驚き、とりこになった。以来、30年以上にわたり、明治伊万里を研究し、海外から約2万点を里帰りさせてきた」とあります。蒲地氏は、現在「東西古今」代表取締役で、有田焼企画制作プロジューサーをされています。40代の頃、頻繁に欧米各地を回り、17世紀から19世紀に輸出された有田焼を約2万点里帰りさせました。私は、前回取り上げた有田教育の父・江越礼太のひ孫に当たる江越眞氏の紹介で、2021年11月に有田に蒲地氏を訪ねたとき、明治伊万里に対する蒲地氏の情熱に圧倒されました。蒲地氏は「創業時の有田郷は半農半陶であり、農業の合間に焼き物を焼いていた。この豊かで厳しい自然環境はものづくりの伝統も培ったに違いない。その後、陶磁器専業の人々にとって、大地から育まれた思想は名器を生み出す源流になり発展していったのである。まさしく『器物は人の思想を写すものなり 名器を作らんとすれば自身の高尚な思想を養うべし』という名言が生まれたのである」(雑誌「うなぎ百撰」折々のこと14)と語っています。

アメリカから里帰りした酒井田柿右衛門作「色絵製陶之図大皿」

色絵製陶之図大皿 酒井田柿右衛門作 明治初期 径61センチ

 蒲地氏の「折々のこと」という文章には、「近年、筆者のもとに柿右衛門作の銘が入った大皿がアメリカから里帰りした。柿右衛門の成り立ちが書かれた『製陶の図』の『賛』は怪しい。柿右衛門は外部から有田に移住したもので、書かれている天正年間にはまだ存在しない。白磁を創始した、とあるがこれも今の定説では朝鮮の役で渡来した李三平による白磁鉱石の発見を嚆矢(こうし=物事のはじめ)としている。この色絵磁器の見どころは、四十三名の男女がそれぞれ分業して立ち働いている窯場が色鮮やかに詳細に且つ正確に描かれている。中には主と思しき人が来客を迎えている。着飾ったご婦人が釉薬をかけているが何かお祝い事であったのだろうか。寸暇を惜しんで仕事をしている慌ただしさまで感じる情景だ」とあります。この作品の制作年代は幕末と推定されています。古伊万里にも「染付職人尽絵図大皿」というよく似た作品があります。この製陶の図は、宣伝ポスターの代わりにでも制作されたのでしょうか、大変興味深い作品です。