萩焼とは
萩焼は、16世紀末の豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592~1597年)に出陣した大名たちによって連れて帰られた朝鮮人陶工によって始まります。福岡県の上野(あがの)焼・高取焼、熊本県の八代焼、鹿児島県の薩摩焼と同じ近世国焼の一つです。秀吉の1592年(文禄元年)の朝鮮出兵に際し、毛利輝元はその総帥として朝鮮に渡り、釜山(ぷさん)から北上して開寧(かいねい)にまで進みます。その北西の方向に朝鮮王朝有数の官窯である鶏龍山があります。1604年(慶長9年)に藩主輝元の命によって、朝鮮人陶工の李勺光(りしゃこう)・李敬(りけい)兄弟を萩に招致し、城下の松本村中ノ倉(現・萩市)に住まわせ、御用窯を築いたのがはじまりといわれています。
こうして松本村中ノ倉で創始された萩焼は、江戸時代前期には長門深川村、現在の長門市深川三之瀬(ふかわそうのせ)に、明治時代には山口市に萩焼の窯ができ、現在では山口県全域に広がりました。この松本焼(松本萩)と深川焼(深川萩)の二つの流れに分かれますが、山口県下にはこのほか、泉流山焼、東光寺焼、指月(しげつ)焼、総瀬焼、須佐焼、俵山焼、山口焼、八幡焼、宮野焼、堂道焼、浅地焼、原河内焼、大原焼、旦(あした)焼、岩淵焼、西浦焼、鞠生(まりう)焼、三田史尻焼、玉祖焼、戸田焼などがあり、これらも広い意味で萩焼と呼ばれています。
「萩焼」という呼称が文献上に初出するのは、1638年(寛永15年)松江重頼の『毛吹草(けふきぐさ)』で、そこに諸国よりでる古今の名物として「萩焼物」という記載があります。茶会記では1647年(正保4年)の『松屋久重会記』に「茶碗ハギ焼カ」とあるのが初出です。また、萩の支藩である岩国藩(吉川家)の『御取次日記』(1664年・寛文4年の記載)には「萩焼之茶碗」とあり、『音信帳』(1666年・寛文6年)には「長門焼」とあります。地元の萩藩では、窯所在の地名から「松本焼」と呼ばれていたようで、1645年(正保2年)の藩庁の記録でも「松本焼御茶入」とあります。一般的に「萩焼」と呼ばれるようになったのは、明治以降に万国博覧会などで出品するようになってからのことです。
萩茶碗 銘「李華」 伝初代坂高麗左衛門
器全体に白化粧を施した粉引手の茶碗は、草創期の萩焼に多く見られます。器の表面に広がる貫入から染み出てくる鼠色が、全体に侘びた景色を見せています。「萩の七化け」といいますが、本作はその代表的な茶碗として知られています。高台は大振りで豪快な作りの桜高台となっており、高台脇から胴部にかけてへら彫りの痕が大胆に伸びて、この茶碗の特徴となっています。この造形から、初期の萩焼が古田織部の強い影響を受けていたことがうかがえます。「李華」という銘がいつ付けられたかは分かりませんが、いかにも坂家らしい命銘だと思います。
毛利輝元と毛利秀元
毛利輝元(1553-1625)は戦国時代の武将、毛利元就の孫に当たります。父隆元が早世し、祖父元就の跡継ぎとなり、1571年(元亀2年)にその遺領を受け継ぎ右衛門督に任じます。織田信長と対立し、叔父の吉川(きっかわ)元春・小早川隆景の協力を得て中国地方を守りますが、豊臣秀吉と講和を結び、豊臣政権の重鎮となります。先述では、「毛利輝元の命によって李勺光を招致」と書きましたが、李勺光は高麗焼物細工累代家伝の秘法を身に付けていたので、秀吉の命によって大坂へ連れて来られてから、その後毛利輝元へ預けられたともいわれていますが、恐らくそれが真実なのでしょう。輝元は李勺光を大坂から領国の安芸国(現・広島)へ送った後、1600年(慶長5年)9月の関ケ原の合戦では、西軍の石田三成に与(くみ)して東軍の徳川家康に敗れますので、それまでの領地を削られ、1604年(慶長9年)には長門国に入府します。この萩移封に伴い、李勺光・李敬も広島から萩に移住し、城下の松本村中ノ倉(現・萩市椿東中の倉)に築窯します。その後、約半世紀を経て深川村三之瀬の渓谷に分窯し、江戸時代を通じて藩の御用窯として繁栄します。その背景には、輝元が、豊臣秀吉をはじめ侘茶の大成者である千利休、堺の豪商・今井宗久、津田宗及ら茶匠たちと親しく交遊したことが挙げられます。
毛利秀元(1579-1650)は大名で、毛利元就の四男伊予守元清の子。輝元の養子となりますが、その実子の秀就が生まれると分家し、長府毛利家の祖となります。秀元は、若くして慶長の役に出陣して功を挙げ、1598年(慶長3年)秀吉から天下の名物「玉虫の茶壷」や「蕪ナシノ花入」を下賜され、慶長の役の撤兵の際は朝鮮で茶碗を焼かせて持ち帰ったといわれ、茶の湯の造詣が深かったと伝えられています。古田織部とは茶会に招待し合ったり、名物の瓜や水指の蓋を贈答したりと、並々ならぬ交遊のほどが知られています。古萩の茶碗に見受けられる「織部好み」の様式は、この秀元の影響によるものであろうといわれています。
松本焼の開窯
李勺光・李敬の兄弟が松本焼をはじめたのは毛利輝元の萩開府以後のことで、城下の松本村中ノ倉の鼓ヶ嶽を薪山(通称、唐人山)として払い下げられ、居屋敷を与えられて「窯薪山御用焼物所」が開窯されました。李勺光は、萩に来てから妻をめとり、男児を一人もうけました。その男児が山村新兵衛光政であり、勺光が長門の深川村三之瀬で亡くなった後は、弟の敬が新兵衛の後見役をつとめ、中ノ倉の松本焼の中心的人物となります。敬は最初、坂本助八と名乗りますが、のち坂助八に改姓し、1625年(寛永2年)には藩主から「高麗左衛門」の和名を拝領します。初代坂高麗左衛門の誕生です。1661年から1673年(寛文年間)に三輪休雪が窯を開き、三輪窯も江戸時代には御用窯として保護を受けます。この他、松本には、佐伯窯、林窯、大賀窯、峰の坂窯、吉賀窯、福永窯などが興り、これらを総称して松本焼(松本萩)と呼んでいます。
現在、坂家は坂悠太氏が十四代を襲名されています。私は十二代と親しかったので、よく萩でも東京でも一緒にお酒を飲み談笑しました。十四代坂高麗左衛門襲名展が4月24日から29日まで京都髙島屋にて開催される予定です。
萩茶碗 銘「張良」 伝初代坂高麗左衛門
初代坂高麗左衛門(道忠)の作品とされる茶碗で、口縁端部には山道をつけ、胎土はやや粗くざっくりとして、いかにもひょうげた感を強く感じさせる沓形茶碗です。高台は桜高台と呼ばれる萩焼特有の割高台です。銘の「張良(ちょうりょう)」という名前は、司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』に登場する前漢初期の軍略家で劉邦の軍師の張良のことでしょうか。