やきもの曼荼羅[20]日本のやきもの3 中世古窯―その心と形

日本の中世古窯

 これまでに、日本各地で発見された中世古窯の数は79カ所といわれています。その中には、広域を商圏とした大窯業地から、在地の需要に応じた小規模なものまで、さまざまな窯業形態が知られています。現在まで絶えることなく継続している瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波・備前の6つの窯業地を六古窯と呼びます。その名称は、戦後、陶磁学者の小山冨士夫によって提唱されたものです。
 瀬戸窯は、鎌倉時代初期に中国陶磁の高度な生産技術と意匠を導入し、寺院や貴族、武士層などの高級調度品・日用什器(じゅうき)として生産されました。他の五古窯はおもに貯蔵容器としての壺・甕(かめ)・擂鉢(すりばち)などを中心に生産され、瀬戸窯との棲み分けが行われました。五古窯中、越前窯・信楽窯・丹波窯には常滑窯の生産技術の影響が認められます。また、海上交通を利用して、常滑焼は北は津軽半島の十三湊(とさみなと)から南は種子島まで、越前焼は北は北海道南端部から南は島根県まで、備前焼は北は鎌倉から南は九州地方まで、実に遠くまで運ばれています。

中世古窯の父・常滑窯

 ところで、平安時代の常滑焼の最大の消費地は奥州平泉(現・岩手県平泉町)といわれています。そこから出土する壺の大半は常滑焼の三筋壺(さんきんこ)で、その用途は経文を壺に入れて埋蔵するために使われていたと報告されています。写真の「常滑三筋壺」は常滑窯の初期のもので、自然釉が口縁から肩に降りかかり、白く変色して黒褐色の斑(まだら)に焼き上がっています。平安時代末期、平泉を拠点に東北一帯を支配した奥州藤原氏は、豊富に産出した砂金や北方交易を背景に繁栄を極めました。その約100年間に、中尊寺金色堂を築き、毛越寺(もうつうじ)や宇治の平等院を模した無量光院(むりょうこういん)を造営しました。藤原四代が築いた寺院や遺跡群は2011年6月世界文化遺産に登録されましたが、その街づくりや文化が後の鎌倉幕府に与えた影響は大きいといわれています。中世の街づくりにとって、壺・甕・擂鉢の三器種は必要欠かせざるものであったようです。平泉町役場の八重樫忠郎氏の報告によれば、12世紀初めに渥美窯(あつみよう)の工人によって平泉に花立窯(はなだてよう)が築かれ、大碗・碗・片口鉢・甕などが生産されました。しかし、その窯は焼成に失敗し、結局は成功しなかったようです。以上のことからも、常滑窯や渥美窯の成立には間違いなく奥州藤原氏のような当時の権力者が深く関わり、そうした人々からの注文によって中世古窯が成り立っていたと推測されます。

古常滑の「自然釉猫がき文大甕」

 「とこなめ陶の森」資料館蔵の「自然釉猫がき文大甕」は、12世紀に愛知県半田市西椎ノ木山古窯で焼かれたものといわれています。口縁部が大きく外反りし、小さな底部に対して肩が大きく張り出しているのが特徴です。これは輪積み成形によるもので、小さな底部から粘土紐を継ぎ足しながら成形することによって生まれた造形です。12世紀の常滑窯の特徴である薄造りを示して、肩部には猫がき文と称される櫛目状の箆調整痕(へらちょうせいあと)が残っています。この猫がき文は、体部の各所に認められる亀裂を隠すためのものであったのかもしれません。口縁から肩部には暗黄緑色の自然釉がたっぷりと掛かり、一部黒褐色の鉄色を交える暗褐色の器肌の重厚な作品となっています。また、写真の「常滑三耳壺(さんじこ)」は鎌倉時代のもので、赤褐色の器肌に、口頸(こうけい)部から胴にかけて白い灰が被り、さらに淡緑色の自然釉が大きく流れて、先端部分に数筋の玉垂れが見えます。張り出した肩には3カ所に耳が付き、耳と耳の間に刻印が横列に押されています。この横列に押された刻印も、猫がき文と同じように常滑焼の特徴といえるでしょう。

俳人・加藤楸邨の「月下信楽」

 俳人の加藤秋邨(しゅうそん)に「月下信楽」という文章があります。その文章を読むと、「何にも凭(もた)れず、何にも媚(こ)びず、それ自身で極めて自然に据(す)わっているという在り方なのだ。この自然に据わっているという在り方は、長い間自分に対して求め続けてきたものだが、口でいうほど簡単なものではない」と、信楽の壺に自身の在り方の理想を求めています。まさに、日本人の心と形の在り方を語った文章です。

写真家・土門拳の『古窯遍歴』

 日本人をリアルに撮り続けた写真家の土門拳も、また日本人らしいやきものとしての中世古窯と出合った一人です。土門は『古寺巡礼』と平行して、13年掛けて『古窯遍歴』を撮り続けました。そして中世陶器に「縄文・弥生から連綿とつづく日本の『古代的なもの』」を感じとり、「実用の具として作られた『やきもの』に、この『天工』がプラスされて、使われることとは別の『何か』が生み出される」と語っています。「天工」とは「人工」に対して天の仕業(しわざ)のことですが、土門の「天工」という捉え方は、民芸運動家柳宗悦の「他力」「仏智」という考え方にも通じるように思います。中世陶器の美に安らぎを求め、日本人を感じ、人生を重ねて見る愛陶家の心理と、中世陶器が縄文から連綿と続く日本人の土の思想から生まれた内発的な造形であることとは、決して無関係とは思えません。まさに、中世陶器は日本人の心の故郷(ふるさと)なのです。