やきもの曼荼羅[3]料理と器 北大路魯山人(其の二)

北大路魯山人 (wikipediaから)

魯山人の基本は書と篆刻(てんこく)

 『角川日本陶磁大辞典』の北大路魯山人の項には、「陶芸家。京都府生まれ。書・漆芸・日本画・料理など幅広く独自の美の世界を追求した」と記されています。しかし、魯山人の基本は書と篆刻(てんこく)だと思います。その習得法は「目習い」で、魯山人に師はいません。それは絵についても、同じことが言えます。魯山人の絵には、琳派や桃山の障壁画、中国の南画などの影響が見られますが、すべて独学です。
 魯山人に「人間書道」と書いた色紙があります。絵手紙で有名な書家の小池邦夫氏が、こんなことを語っています。

書道展にある書は技巧が目立ちすぎて、見る者には届いてこない。つまり人間が書の中から感じられない。パターンでやっているようだ。ところが、魯山人の書は感動が手を動かしているようで、線も形も動いている。手だけの書では、見る者に襲いかかってこない。書というのは、人間が書くのであって、手が書くのではないことを、おぼろげながら知ることができた。また、いい書をかいているのは、書家ではなく、もっと違ったところにいる人がかいているのを知った。『人間書道』というものを魯山人からつかむきっかけを得た。

この言葉は、書について語ったものですが、絵ややきものについても同じことが言えるかも知れません。

寒山詩「閑自訪高僧」(しぶや黒田陶苑より)

画家に憧れて書を独学

 1893(明治26)年、房次郎(魯山人の本名)は梅屋尋常小学校を卒業し、京都二条烏丸の和漢薬屋「千坂わやくや」に奉公に出ます。その翌年、御池油小路西入森ノ木町の仕出し料理屋「亀政」の「行灯(あんどん)看板」に魅せられます。その行灯には、紐でいわかれた亀の絵が一筆描きで描かれており、その紐の先がもつれて、ひら仮名の「まさ」と読めたといいます。その亀の絵を描いたのが、京都画壇を代表する日本画家・竹内栖鳳(せいほう)でした。ちなみに、栖鳳は、「亀政」の主人・竹内政七の長男です。このエピソードから、魯山人の並外れた感性を感じます。
 1895(明治28)年「第4回内国勧業博覧会」で竹内栖鳳らの日本画を見て感激、画家になることを決意します。そして、翌年1月には奉公先を辞めます。養父に画学校への進学を願い出ますが適えられず、家業の木版画を手伝いながら、法帖を買い求めて書道家を志します。恐らく、房次郎は早く自立し、栖鳳のような絵描きになりたかったのだと思います。当時流行っていた「一字書き」で賞金を稼ぎ、「西洋看板描き」で収入を得ます。20歳の秋には、書道家を志して上京。当代きっての書道家と言われた日下部鳴鶴(くさかべめいかく)や巌谷一六(いわやいちろく)を訪ねますが、日下部から「最初から隷書(れいしょ)ではいかん、楷書(かいしょ)を持って来たまえ」と言われ、実力の見抜けぬ「こんな人物から学んだって仕方がない」と独学を続けます。翌年、日本美術協会主催の展覧会に「千字文」を出品し、褒状(ほうじょう)一等二席を取り、宮内大臣・田中光顕(みつあき)子爵に買い上げられます。弱冠21歳の受賞は、書道史上、前代未聞のことでした。楷・行・草の3書体を並べた「三体千字文」は、習字の手本として中国や日本で広く用いられています。その「千字文」を隷書で書いた訳ですから、これは魯山人の書壇への大きな挑戦であったのかも知れません。

陶ノ字 額(しぶや黒田陶苑より)

書を本格的に学ぶため朝鮮を経て中国へ

 魯山人は、25歳の頃、京橋の老舗書肆・松山堂の藤井利八と知り合います。そして、27歳の時、実母・登女(とめ)を伴って朝鮮の京城に渡ります。登女の前夫の息子・西池氏雅が京城で国鉄の機関助手をしていたからです。しかし、魯山人自身は「中国へ渡って書の研究をしたかった」と語っています。妻子を残しての朝鮮行ですから、そこには複雑な事情があったと推察されます。当時、中国では第一革命が起こっていたので、簡単に行くことが出来ません。結局、朝鮮に3年ばかり留まることになり、魯山人は朝鮮京龍印刷局書記になります。その間に、書と篆刻を学んだようですが、29歳の時に上海に行き、清朝最後の文人と言われた呉昌碩(ごしょうせき)と会い、帰国します。後年、魯山人は「自分が大陸で篆刻を学んだとすれば、(呉昌碩からではなく、清代一の篆刻家である)鄧石如(とうせきじょ)の印譜からだ」と語っています。彼が、篆刻や濡額(ぬれがく)に本格的に取り掛かるのは、日本に帰国してからのことです。

書と篆刻を通して数寄者と出会う

 帰国後、魯山人の人生は一変します。1913(大正2)年、魯山人は松山堂の藤井利八の紹介で、滋賀県長浜で紙問屋・文具商を営んでいた河路豊吉を知り、その河路を通じて長浜の数寄者・柴田源七(縮緬、ビードロを商う豪商)、下郷伝兵衛(近江銀行頭取、仁寿生命社長)、呉服商の安藤與惣次郎(よそじろう)、中村寅吉(江北銀行頭取)らと懇意になり、河路邸の濡額「淡海老舗」、木之本の冨田酒造の濡額「七本槍」などを彫ります。この頃から、款印(かんいん)や濡額の依頼が多くなったようです。そして、柴田邸で幼い頃から憧れていた日本画家の竹内栖鳳と会い、款印を依頼されます。柴田源七の長男が栖鳳の長女の夫だったからです。さらに、京都の豪商で美術に造詣の深い内貴清兵衛を知り、鯖江の豪商・窪田ト了軒(ぼくりょうけん)を訪ねます。1914(大正3)年には柴田源七の紹介で京都に転居、洛中の老舗・八百三の「柚味噌」の濡額を制作します。その「柚味噌」の看板を見た東京火災の南莞爾(かんじ)が魯山人の才能に惚れ、生涯のパトロンとなります。また、河路の依頼で「赤壁賦(せきへきのふ)板屏風」を制作します。1915(大正4)年には、窪田邸で金沢の学者で骨董商の細野燕台(えんだい)を知り、すぐに細野邸の食客となります。その燕臺を通して加賀山城温泉の吉野屋主人・吉野治郎や陶芸家の須田菁華(せいか)と出会い、菁華窯ではじめて絵付を試みます。また、吉野屋の別邸に留まり、濡額の仕事を多くこなします。この頃、器と料理の関係に目覚め、「良い料理には良い食器が入用で、良い食器には良い料理が要求される。料理に対する食器の存在は人間に於ける着物の存在である」と考えます。
 書と篆刻を通じて多くの数寄者との出会いがなかったなら、恐らく魯山人の料理もやきものもなかったのではないかと思います。とくに磁器に文字を配したものには、書と篆刻の影響が感じられます。書もやきものも感動が手を動かしているから、魅力的なのでしょう。