やきもの曼荼羅[49]日本のやきもの31 薩摩焼(三)

元立院系の窯

 元立院(げんりゅういん)系の窯は、1663年(寛文3年)小野元立によって現在の鹿児島県姶良(あいら)市西餅田に開窯されました。元立の子孫・小野清右衛門が書き残した「小野元立院履歴書」によると、小野元立は1663年(寛文3年)1月、大隅の山ヶ野金山(横川金山)の坑夫をしていた周防の北村伝右衛門を起用して、この窯を開いたとあります。伝右衛門は肥前有田皿山で陶工をしていたため、この窯場で働くことになったようです。このことから、元立は陶工ではなく、この窯の企画者であり、経営者だったと思われます。民間用の皿、土瓶、徳利、茶碗、壺、花生、甕(かめ)などを焼き、蛇蝎(だかつ)釉による白蛇蜴と黒蛇蝎を特徴としていましたが、1746年(延享3年)頃に廃窯となりました。

龍門司系の窯

 龍門司系の窯は、1596年から1615年(慶長年間)に串木野島平に上陸した朝鮮陶工の卞芳仲(べんほうちゅう、和名・仲次郎)と何芳珍(かほうちん)が現在の鹿児島県姶良市加治木町に開窯したと言われています。藩主・島津義弘が1619年(元和5年)に83歳で死去すると、次の藩主・家久は鹿児島市城山に移り、家久の子・忠朗は一万石を与えられ加治木領主となります。この時、芳仲は吉原中屋敷に土地を賜り「吉原窯」を興しました。しかし、跡継ぎに恵まれず、「田の浦窯」の陶工・小右衛門(芳珍の孫)が跡を継ぎますが、1667年(寛文7年)には加治木山元(やまもと)の地に「山元窯」を興し、山元碗右衛門と改名します。しかし、この窯はわずか9年間で廃窯となります。その後、碗右衛門は加治木辺川(へがわ)の湯の谷に「湯の谷窯」を築いたと伝えられていますが、その沿革も窯跡も詳らかではありません。しかし、龍門司系の窯は1688年(元禄元年)同町小山田に移り、1718年(享保3年)頃には同町茶碗屋に移築して現在に至ります。この窯の技法上の特徴に白化粧があり、刷毛目、三島、飛鉋(とびかんな)、三彩、蛇蝎釉などの技を巧みに操りました。

 龍門司系の窯に属する分系としては、1786年(天明6年)12月、名工・川原芳工が主取りとなって、加治木田弥勒の地に肥前系の磁器窯「弥勒皿山窯」が開窯され、染付白磁を焼成します。これは、1779年(安永8年)3月、芳工が嫡子・芳寿(弥五郎)を伴って肥前皿山に赴き陶法を習得して帰国したからです。その数年後、芳工は藩主・重豪(しげひで)の命によって再び星山名か兵衛を伴って肥前・筑前・備前・京都・尾張・伊勢の窯場を歴訪し、帰国すると鹿児島市花倉に「花倉窯」を開窯し、これまでの龍門司系のやきものとは異なった製品を焼きます。

色絵唐草文香炉

色絵唐草文香炉 平佐窯 明治時代・19世紀 高6.7センチ 径7.1センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵


 この香炉は、構図が明治時代の輸出用薩摩金襴手に極めて類似しているので、現在の鹿児島県薩摩川内(せんだい)市の平佐窯で焼かれた明治前半の作品と推定されています。ヨーロッパ人好みの左右対称の構図にも、その時代の特徴が感じられます。

平佐系の窯

 平佐系の窯は、1776年(安永5年)に現在の鹿児島県薩摩川内市平佐郷白和の素封家、今井儀右衛門が出水(いづみ)郡脇本元村に「脇本窯」を開窯したことに始まります。しかし、儀右衛門の窯場経営は資金不足で失敗に終わります。その後を受けて、平佐郷の北郷(ほんごう)家9代領主・久陣(ひさつら)の家臣・伊地知(いじち)団右衛門が領主の後援を得て天辰村抜川谷に「北郷窯」を開き、肥前有田の陶工を招いて、天草石を用いて染付磁器の生産に成功します。さらに1846年(弘化3年)に色絵の開発に成功し、1865年(慶応元年)には磁胎三彩(中国風には素三彩)で、いわゆる鼈甲(べっこう)釉を編み出しました。この手法は、1869年(明治2年)6月に長崎から招聘した陶画工・青木宗十郎によって、長与三彩の技法が伝えられて発達したものです。平佐窯の製品は、白磁・染付・色絵・鼈甲釉の磁器製品を焼造して盛況を呈し、明治になると「田中窯」「勝目窯」「柚木崎(ゆのきざき)窯」「永井窯」が新たに加わりましたが、1941年(昭和16年)廃窯となりました。

三彩猪牙(酒注)

三彩猪牙(酒注) 江戸時代~明治時代・19世紀 (左)高10.7センチ 長さ12.5センチ (右)高9.8センチ 長さ12.8センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵

 これは薩摩地方の猪牙(ちょか)と呼ばれる、いわゆる酒注です。平佐系の窯が好んで作った器の一つで、一対で伝わったものです。黄釉(おうゆう)と藍釉(らんゆう)という異色の組み合わせとなっています。

薩摩宋胡録手

 薩摩で宋胡録(すんころく)写しが焼かれたのは、「星山家系譜」によると、慶長年間に金海(きんかい)が帖佐(ちょうさ)宇都(うと)窯で三島手と共に制作したと記されていますが、宇都の窯跡からは遺品が発見されず、確実な記録と製品が残っているのは、竪野冷水(たてのひやみず)窯で1681年から84年(天和年間)に星山嘉入が作ったことが知られています。さらに、1763年(宝暦13年)には長田窯でも焼成されていることが明らかになっています。図柄は青海波文、麻葉文、唐草文、斜格子文、亀甲文などで、製品は花生、火鉢、猪牙、杓立、茶碗などが見られます。