やきもの曼荼羅[63]日本のやきもの45 京焼(六)

仁阿弥道八作 色絵桜紅葉文大鉢(雲錦手)

仁阿弥道八作 色絵桜紅葉文大鉢(雲錦手) 江戸時代・19世紀 口径39.0センチ 高台径16.6センチ 高16.6センチ 京都国立博物館蔵

 本作品は、仁阿弥道八(にんあみどうはち)が口縁に不規則な凹凸を付けた厚手の大鉢です。見込みと側面に満開の桜と紅葉を配し、口縁近くには不定形な透かしを施して、桜と紅葉に立体感を与えています。雲錦手(うんきんで)とは、桜花と紅葉を組み合わせた色絵の意匠のことで、江戸時代の名工・仁阿弥道八がもっとも得意とした意匠です。それゆえ、雲錦鉢といえば二代道八といわれるようになりました。

名工・仁阿弥道八

 仁阿弥道八(1783~1855)は、本姓を高橋道八と言います。名は光時。松風亭、華中亭、法螺山人などと号しました。奥田潁川(えいせん)の門下で青木木米(もくべい)と並ぶ京焼の逸材として知られています。父の初代道八は、伊勢亀山藩士・高橋八郎大夫の次男で、名は周平光重、松風亭空中と号しました。宝暦年間(1751~64)に京都へ出て、粟田口(あわたぐち)三条白川畔で陶業をはじめますが、竹木の彫刻に長じ、南画を学んだ文人で、南画家の池大雅や上田秋成とも往来があり、二人と合作した煎茶器などが残っています。初代道八の長男・周助光貴は1797年(寛政9年)に19歳で死去し、次男の光時が二代道八を襲名し、三男は尾形周平を名乗ります。青木木米もそうですが、名工は一代にして成らないようで、先代や先々代からの環境があって生まれてくるようです。

 さて、三代道八が京都府に提出した「取調書」によれば、仁阿弥道八は1811年(文化8年)に粟田口から五条坂に移り、その翌年には楽焼の鞴窯(ふいごがま)を用いて安南(あんなん)写しの半磁器を焼成し、さらに「白磁青華磁」の磁器焼成に成功したとあります。その後、仏師仲之町(現・東山区)に窯を構え、二代和気亀亭(わけきてい)・水越与三兵衛(みずこしよそべえ)らと共に、磁器生産に乗り出します。1824年(文政7年)には、近江石山寺の座主・尊賢法親王の求めに応じて錦窯(きんがま)で楽茶碗を焼成し、また同年、本願寺本如上人のために東山音羽村採嶺渓(現・東山区)に窯を築いて露山焼をはじめます。翌年には徳川治宝(はるとみ)の招聘で弟・周平、嫡男・光英と共に紀州偕楽園に出仕し、染付や色絵磁器を焼成します。1826年(文政9年)には仁和寺宮門跡から法橋(ほっきょう)に叙せられ「仁」の字を、また醍醐三宝院宮門跡から「阿弥」と「龍光院」の院号を賜りますが、その前後から寺院や大名家に招聘(しょうへい)されて、各地で製陶の指導を行います。1828年(文政11年)紀州からの帰り、和泉貝塚(現・大阪府貝塚市)の願泉寺で御庭焼を開いて、弟・周平を残して帰京します。1832年(天保3年)には、高松藩主・松平頼恕(よりひろ)の招聘に応じて讃岐高松に行き、三本松の堤焼(つつみやき)陶工・堤治兵衛に「陶器伝法書」を伝授、讃窯の開窯に貢献します。また、岡山の虫明(むしあけ)焼、嵯峨角倉の一方堂焼にも参画したといわれています。1842年(天保13年)に隠居し、伏見堀内村江戸町に桃山焼を開き、晩年を過ごしました。肥前の色絵磁器は有田皿山代官によって統括され、やきものを藩外に持ち出すことを禁じられていましたが、京焼色絵は到って自由で、多くの地方窯に影響を与えたようです。

 仁阿弥道八の作品については、本業とした磁器製品よりも「銹絵白泥雪笹文手鉢」(文化庁蔵)などの京焼色絵や「黒楽立鶴文茶碗」(東京国立博物館蔵)などの土物が高く評価され、道八自身も京風のやきものを好み、光悦風や乾山風を倣った作品や捻りものの置物などに才能を発揮します。とくに乾山の色絵の世界に通じる雲錦手の「色絵桜楓文鉢」(MOA美術館蔵)や「色絵桜紅葉文輪花鉢」(サントリー美術館蔵)などに道八の特徴が見られます。

永楽保全

永楽保全作 色絵月に蟷螂文茶碗 江戸時代・19世紀 高7.1センチ 口径12.2センチ 高台径4.7センチ 東京国立博物館蔵

 本作は、永楽保全が得意とした色絵の茶碗です。赤い月に緑の蟷螂(とうろう)カマキリが描かれています。共箱の蓋表には「仁清写 茶碗」と保全自らが箱書しており、仁清の茶碗を本歌とした写しであることが分かります。

 永楽保全(1795~1854)は、茶の湯で用いられてきた土風炉師・西村善五郎家の十一代目です。生家は京都上京の織屋沢井家と伝えられ、1807年(文化4年)頃、大徳寺黄梅院の住職・大綱宗彦(だいこうそうげん)の仲介により西村家十代・了全の養子となります。1811年(文化8年)茶匠久田家七代宗也の許で茶の湯を学び、1817年(文化14年)に了全より家督を相続して十一代善五郎を襲名します。永楽の名前は1813年(文化10年)了全と共に紀州徳川家の偕楽園御庭焼に出仕し、藩主・徳川治宝より「永楽」の銀印と「河濱支流」の金印を拝領します。以来、保全は「永楽」を陶号とし、さらに明治になると善五郎家は西村姓から「永楽」を本姓とします。

 保全の作陶は、茶の湯の千家や豪商三井家などに所蔵されていた茶陶の名品の写しを制作することからはじまり、やがて本格的にやきもの作りの世界へと進んでいきます。陶技は、伝統的な京焼の陶家である粟田口窯の岩倉山家、宝山家などへ出向して習得しました。作風としては、染付、交趾、金襴手を早くから手掛け、1830~44年(天保年間)前半の善五郎家の当主であった時期には完成の域に達したと言われています。染付では祥瑞(しょんずい)、古染付、安南写しなどが見られ、交趾では模様の輪郭を浮き線で表した中国明朝の法花の技法を採り入れます。金襴手では金泥を用いて針彫りしているところに特徴があるようです。1843年(天保14年)保全は、善五郎の名を長男・和全(12代善五郎、1823~96年)に譲り、善一郎と名乗って作陶を続けますが、保全のもっとも充実した作品が生み出されたのもこの時期のことです。また、関白鷹司家の御庭焼を務めて「陶鈞軒(とうきんけん)」の号と「陶鈞」の印章を下賜され、有栖川宮家から「以陶世鳴」の染筆を与えられます。この時期には「金襴手花筏絵水指」「交趾写菊置上曲物水指」(*)や「色絵日の出鶴茶碗」「色絵海老絵茶碗」などの色絵茶碗にも本格的に取り組んでいます。しかし、1847年(弘化4年)友人の漆師・佐野長寛の次男・宗三郎を養子として迎え、和全を当主とする善五郎家と並立して新陶家の善一郎家を創設したことにより、息子和全との間に不和が生じ、陶技開発に費やした金銭が多額の借財となって善五郎家の家計を圧迫したことで、1849年(嘉永2年)には隠居することになります。そして翌年、京都を離れ江戸に活路を求めますが失敗に終わり、1851年には滋賀の大津の琵琶湖畔に湖南窯を開き、また摂津高槻城内で作陶し、さらに三井寺の円満院に御用窯を築くなど、晩年は各地の窯場で仮住まいの生活を過ごすことが多かったようです。

*「金襴手花筏絵水指」=きんらんではないかだみずさし
 「交趾写菊置上曲物水指」=こうちうつしきくおきあげまげものみずさし