やきもの曼荼羅[21]日本のやきもの4 手のひらの中の宇宙

技法に込められた思想

 茶の湯の茶碗は「轆轤(ろくろ)」による成形が主ですが、最近は「刳り貫き」(くりぬき、「刳り抜き」とも)という技法で作る陶芸家も増えているようです。樂茶碗の場合は、「手捏(てづく)ね」によって成形されます。すなわち、円盤状に平らに土を叩きのばしたものを板の上にのせ、両手のひらを使って土を内へ内へと締め上げていきます。樂直入氏(十五代樂吉左衞門)は、その手捏ね技法について、「樂茶碗の口部を抱え込んだ内包的な内部空間は深々としてそれ自体宇宙的な広がりを感じさせる。その宇宙はまさに手びねりによる<手の形>そのもの-<手のひらの中の宇宙>でもある」と語っています。

 確かに、茶碗は眺めるものではなく、手に取って扱うものです。それも両手のひらでしっかりと持って一服のお茶をいただくという、その手のひらの感触と、お茶をいただくという動作の間の茶碗から眼までの距離感が大切だといいます。そうでないと、<手のひらの中の宇宙>は見えてきません。これは、茶碗にだけに許された鑑賞法です。樂茶碗が手のひらという身体を使って成形されることと、その茶碗を両手のひらの内に抱え込み身体を通して鑑賞することとは、決して無関係ではありません。それは轆轤成形の場合も同じで、名人は手のひらに五感を集中させて茶碗を成形します。能といわず、茶の湯といわず、身体をもって表現するのが、日本の芸能の基本のように思います。

樂長次郎の茶碗

黒楽茶碗 銘 俊寛 長次郎作 桃山時代 三井記念美術館蔵

 さて、歴代の樂茶碗の中でも、長次郎の茶碗はまた別格です。それは、茶の湯を大成した千利休という非常に精神性の高い宗匠(そうしょう)の指導の下に、茶碗が創造されたからです。だから、利休の侘びの思想が、長次郎の茶碗には濃厚に反映されているのでしょう。「黒樂茶碗 銘 俊寛(しゅんかん)」の内箱蓋表中央には、利休筆と伝えられている「俊寛」2文字の貼紙があります。薩摩に住む門人から長次郎の茶碗を頼まれ、利休が3碗送ったところ、この茶碗を残して他の2碗を送り返してきました。さらに銘を所望してきたので、鬼界ヶ島に一人残された俊寛の故事にちなんで名付けたと伝えられています。この「俊寛」は口部を内に抱え込み、低く腰を張らせた横広がりの半筒形の茶碗です。胴の一方にはわずかな窪みがあり、高台脇には面取りのような変化を付けています。褐色を帯びた黒釉が滑らかに溶けて、わずかに鈍い光沢を放っています。その優美な中にも緊張感のある微妙な変化が、私が好きな理由の一つでもあります。

利休が創造した草庵の茶室「待庵」

 ところで、今日のような草庵風の茶室は、利休が田舎家の形を取り入れて創り上げたものといわれていますが、現存するのは京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町妙喜庵(みょうきあん)に残る国宝茶室「待庵(たいあん)」のみです。それは、わずか2畳の茶室で、次の間と勝手(水屋)の間を含めても4畳半大という狭小の空間です。しかし、その内部は少しも狭苦しさを感じさせないものです。茶室の内壁は荒壁のままで仕上げ塗りをせず、煤(すす)で暗く色づけし、点前座と床奥の隅柱を壁土で塗り込めて消し、余分な装飾を一切排除しています。それは、利休の侘びの思想を感じさせる非日常的な空間ですが、同時に、利休の心の空間でもあるように思います。

樂長次郎の「黒楽茶碗 銘 ムキ栗

 田舎家に泊まった経験があると分かるのですが、草庵は土壁や障子一枚隔てて、外の自然を皮膚呼吸しているといってもいいと思います。利休が二畳茶室という狭小の空間を創った理由を考えるに、利休は外界から茶室を切断したのではなく、五感を研ぎ澄まして外の自然と一体となり、宇宙を感知するための空間を創りたかったのではなかろうか。そのためには、どうしても2畳でなければならなかったのではないかと思います。だから、茶室そのものに宇宙がある訳ではなく、茶碗の中に宇宙がある訳でもありません。宇宙は茶人の心の中にあり、それを茶室の中で体感することによって、はじめて<手のひらの中の宇宙>が見えてくるのです。

 利休は、名物や唐物がなくても、それに匹敵するだけの芸術性を持った茶室という空間を創造しました。これは画期的なことです。長次郎の「黒楽茶碗 銘 ムキ栗」は、底部は円形、胴部は四方形の異例の茶碗です。その内部の侘びた景色は、利休創案の茶室「待庵」を彷彿(ほうふつ)とさせるといわれています。深々として宇宙的な広がりを感じさせる茶碗です。その形は、利休好みの「四方釜」に趣が似ているといいます。勝手な想像をすれば、天は円形、地は方形という、天地の成り立ちを示す中国の「天円地方」を逆さにした形です。すなわち、地から天を覗いた内部交換です。この茶碗は、従来の茶碗の概念を打ち破る異形の姿をしています。しかし、茶碗の本質は内部空間にあります。ならば、姿がどう変化しようと、本質は変わりません。この茶碗は、利休の茶碗に対する在り様を語っているのかもしれません。