やきもの曼荼羅[52]日本のやきもの34 美濃焼(三)

黄瀬戸草花文平鉢

黄瀬戸草花文平鉢 安土桃山~江戸時代 高5.8センチ 径29.1センチ 底径15.3センチ 東京国立博物館蔵

 俗に「あぶらげ手」「あやめ手」と呼ばれる黄瀬戸の典型作で、中国・龍泉窯の青磁皿を写した鐔縁(つばぶち)状の最初期の作品です。青磁の鎬文をモデルとして、内側面を鑿状(のみじょう)の工具で連弁風に削ぎ、見込みには可憐な草花文が線刻で彫られています。そこに緑彩の胆礬(たんぱん*)が施され、黄瀬戸のかせた釉薬との対比が味わい深い作品です。

黄瀬戸

 黄瀬戸とは桃山時代に美濃で作られた黄色のやきもので、鉢や向付などの食器には優品が多く見られます。その名は「瀬戸より来たる黄色のやきもの」という意味で付けられました。黄色のやきものというのであれば、中世瀬戸の灰釉陶器まで遡りますが、ここでは黄釉地に線刻文と胆礬の緑彩および鉄彩が施されたものをいいます。緑彩や鉄彩による加飾、鉦鉢(どらばち)という新しい器種の誕生については、同時代に盛んに輸入されていた「華南三彩盤」からの強い影響があったと考えられます。黄瀬戸の初源は「道陳好茶碗」といわれています。この茶碗は千利休所持の茶碗で、半筒茶碗を好んで取り上げた戦国時代の堺の茶人・北向道陳に由来すると考えられています。しかし、黄瀬戸は食器が主体で、造形的には時期的に並行する瀬戸黒や黄瀬戸のあとに主体となる志野と比べて、歪みを持たないものを基本としています。桃山時代の美濃の黄瀬戸には、「菊皿手」もしくは「ぐいのみ手」と、「あぶらげ手」もしくは「あやめ手」があります。素地・釉薬は同じですが、よく焼けると光沢の強い「ぐいのみ手」になり、火が甘いと肌のじわじわとした「あぶらげ手」になります。古来茶人は「あぶらげ手」をとくに尊び、小河家の「菖蒲文鉦(どら)鉢」を一名「あやめ手」とも呼んでいます。黄瀬戸の名碗としては「難波」が有名ですが、その他、東京国立博物館蔵の「草花文平鉢」、個人蔵の「大根文鉦鉢」、藤田美術館蔵の「黄瀬戸鉦鉢」「根太香合」、根津美術館蔵の「宝珠香合」「黄瀬戸立鼓花生」なども名品として知られています。

瀬戸黒

 瀬戸黒は天正(1573~1592)の頃にはじめて作られたので一名「天正黒」とも呼び、また焚き上がると真っ赤なうちに窯から引き出すので、「引出黒」とも呼ばれています。瀬戸黒には鋏で挟んだ痕が必ずあり、一つの景色になっています。瀬戸黒には後に瀬戸で作られたものもありますが、天正・文禄頃の古いものはやはり美濃で作られ、大萱のものが特に優れています。なお、瀬戸黒によく似ているやきものに織部黒があります。同じく窯から引き出した引出黒ですが、器形作風に違いがあり、時代も瀬戸黒は天正・文禄、織部黒は慶長・元和という違いがあります。瀬戸黒は、岐阜県可児市・大萱古窯跡群の牟田洞窯、窯下窯、岩ヶ洞窯、中古窯、多治見市の尼ヶ根古窯、大平古窯跡群の由右衛門窯、窯沢窯、土岐市泉町久尻の高根山古窯跡群、隠居山遺跡などから陶片が出土しており、多治見市の生田町や弁天町などでも作られています。しかし、織部黒は主に土岐市泉町久尻の元屋敷で作られており、織部らしい形の歪んだものや、作行の飄逸(ひょういつ)なものが多く見られます。瀬戸黒茶碗は、「小原女」(個人蔵)、「小原木」(不審菴蔵)が有名です。

黒織部茶碗

黒織部茶碗 桃山時代 高8.0センチ 径14.8センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵

 この茶碗は、一見織部黒と見えますが、見込みを覗くと鉄絵の模様が見え、従って黒織部茶碗の分類に属すべき作品であることが分かります。見込みに鉄絵を持つ沓茶碗は、他に例を見たことがない意表を突く工夫であり、茶をいただいた後、見込みを覗くと、底に鉄絵が浮かび上がるという趣向です。

織部焼と古田織部正重然

 織部という名称は、利休の高弟であり、戦国の武将として知られる古田織部正重然(しげなり)の好みで作られ、織部の指導が大きな影響を与えたため、この名が起こったといわれています。しかし、京都の織部の屋敷跡の発掘調査によれば、織部焼はあまり発見されませんでした。織部焼が大量に発見されたのは、京都の柳馬場三条附近の井戸の中からでした。それらは、ほとんどが焼きそこないの品物で、当時は窯買いといって、注文主が一窯全て買い取るので、よく出来たものも焼きそこなったものも、美濃から京都まで運んできたようです。それを京都に到着してからより分けたようです。その発掘調査によれば、大和絵風の風景を描いた軟陶陶器が一緒に出土しており、そうしたものが都で流行っていた様子が伺えます。消費地からの注文によって織部焼は焼かれましたが、織部がどこまで関わったのかは詳らかではありません。織部焼について話す前に、古田織部について触れることにしましょう。

古田織部正重然とは

 古田織部は(1543~1615)は武将で茶の湯の名人。美濃国(岐阜県)生まれ。父・重定とともに織田信長に従って上洛、山城・摂津の蔵入地の代官を務めます。秀吉時代に千利休と昵懇(じっこん)となり、師の「人と違うことをせよ」という教えを守り、利休の静謐(せいひつ)さとは対照的な破格の美を追求します。利休が蟄居(ちっきょ)を命じられた時、細川三斎とともに淀の泊で見送った話は有名です。秀吉の死後は嫡男の重広に家督を譲り、自身は隠居して茶の湯三昧の生活を送ります。大坂夏の陣では徳川側につき武功を挙げますが、豊臣側と内通したという疑いをかけられ自刃します。徳川家康は、織部一人にとどまらず、彼の血を引く男系一族全ての子孫や孫に至るまで死に追いやります。よって、織部に関する資料は非常に少ないようです。織部に関する本が刊行されたのは、1946年(昭和21年)日本の歴史学者・桑田忠親の『古田織部』(寶雲舎刊)まで待たねばなりません。織部の研究がなされるようになったのは、近年のことです。では、次回は織部焼についてお話します。

*胆礬(たんぱん)は硫酸銅のことで、焼成すると緑色に発色します。コゲと合わせて黄瀬戸の見所の一つとなっています。