やきもの曼荼羅[58]日本のやきもの40 京焼(一)

京都人にとっての京焼とは

 京都の陶芸家と話していると、京都人は「京焼」とは呼ばない。「清水焼(きよみずやき)」とか「音羽焼(おとわやき)」とか、地域の窯名で呼ぶそうです。京焼という呼び方は、京都のやきものを総称して、京都以外の人が呼ぶ名称だというのです。では、いつ頃、誰が京焼と呼んだのでしょう。文献を調べてみますと、博多の豪商・神谷宗湛(一五五一~一六三五)の『宗湛日記』にある「肩衝(かたつき)京ヤキ」という文字が初見のようです。だとすると、400年も前から京焼という言葉が使われていたことになります。京都の陶芸家は、そのことを言っているのでしょうか。京都人が「この前の戦争で」というとき、それは「応仁の乱を指す」といいますから、これも京都人らしい表現なのかもしれません。

華南三彩印花双魚文盤 中国 明時代(16世紀) 口径28.9センチ 器高5.2センチ 高台径18.2センチ 京都国立博物館蔵

京都の初期陶器窯、樂焼と押小路焼

 京都には、古くは古墳時代の須恵器の窯跡や平安時代の緑釉陶器の窯跡があったようですが、京都で陶器窯が始まったのは、安土・桃山時代のことです。その頃、深草には伏見人形を作る土焼の窯があり、楽市楽座などの政策により豊かな経済力を持った町衆たちが登場し、茶の湯が隆盛してくると、茶の湯の大成者・千利休(1522~91)好みの赤樂や黒樂の茶碗が作られるようになります。その樂茶碗を作ったのが樂家初代長次郎(?~1589)です。当時、長次郎は聚楽第で制作していましたので、聚楽第焼と呼ばれていたましたが、樂家二代常慶(?~1635)の父・田中宗慶(生没年不詳)が豊臣秀吉(1536~98)から天下一の称号と「樂」の文字の金印と銀印を拝領したことから樂焼と呼ばれるようになります。

 当時の京都には、その樂焼のほか、押小路通柳馬場に押小路(おしこうじ)焼がありました。これらの窯を担ったのが、中国からの渡来人の系譜を引いた陶工たちです。樂家五代宗入(1664~1716)の書き残した系図(「宗入文書」)によれば、「あやめ倅 長次郎 辰の年まで百年ニ成」とあり、この「あやめ」は『本阿弥光行状記』によれば「中華の人」と記されています。京都の樂美術館には、中国明時代の華南三彩の影響と思われる「三彩瓜文平鉢」が保管され、田中宗慶作の「文禄四年銘」(1595年)のある「三彩獅子香炉」が伝存しています。華南三彩とは、明時代後期に中国華南地方で焼かれた八輪花の口縁をもつ腰折れ三彩盤ですが、見込みには魚や手長海老、水草などが印刻されています。押小路焼は、この華南三彩系の軟質施釉陶器の技法を継承する陶窯であり、尾形乾山の『陶工必用』には、樂長次郎より古く、一文字屋助右衛門が唐人より内窯の陶法を伝授されて開窯したとあり、「陶磁製法」には、その製品は地文に花樹木などを彫り、緑・黄・紫の色釉を掛けた交趾写しと記されています。しかし、これまでは文献によって推測するのみでしたが、京都市埋蔵文化財研究所には、押小路焼の窯場に近い三条通柳馬場から出土した「白化粧・緑彩の碗、織部風の向付、茶入、香合、水滴、皿、碗などとともに、窯道具、釉薬を溶かした坩堝(るつぼ)」などが保管され、軟質施釉陶器を生産していた押小路焼が、色絵磁器の絵付けへとその活動内容を変貌させていったことが推測されます。

京都の本格的陶器生産と京窯の誕生

 17世紀に入ると、京都においても唐津焼や美濃焼と同様の本格的な陶器生産が開始されます。1605年(慶長10年)6月15日の『神谷宗湛日記』には「肩衝京ヤキ」の茶入が記録されていますが、この茶入は聚楽第焼や押小路焼のような軟質陶器ではなく、登り窯によって焼かれた陶器と思われます。また、1638年(寛永15年)の『毛吹草』には山城国の名産として「粟田口 土物」が紹介され、その粟田口の近隣にある黒谷では「黒谷 茶入合土漢ノ土ニ似ト云」とあり、唐物写しの茶入を制作するためにふさわしい陶土が産出していたことが記述されています。江戸初期の鹿苑寺住職の鳳林承章の日記『隔蓂記』には、1640年(寛永17年)以降、粟田口焼をはじめ八坂焼、清水焼(きよみずやき)など、領内の宮門跡、有力寺院などの保護を得て創窯した東山山麓のやきものの記事が登場します。また、1648~73年(慶安から寛文期)に入ると妙法院宮門跡の後用窯として誕生し、後には現在の五条坂の窯業地で操業する音羽焼、仁和寺宮門跡の保護を得た御室焼、修学院離宮内にあった修学院焼、洛北の御深泥池の御菩薩池焼(みぞろがいけやき)などのやきものの記事も散見され、東山、北山など山麓地域を中心に京焼が続々と始動していたことが知られます。

色絵菊花文茶碗 江戸時代(17世紀) 清水焼 高7.3センチ 口径13.2センチ 底径5.0センチ 東京国立博物館蔵

 こうした記述から、門跡寺院を中心に窯場が発展していったことが分かります。それは恐らく、やきものを焼くための薪を確保するためには、門跡寺院の領地にある木材が必要だったからであろうと推測されます。江戸(東京)には大名家が多く集まっているため、その大名家に出入りする商人や職人たちが産業に携わりますが、京都には各宗派の大本山と称される寺院があり、その大本山を通して各地の寺院に様々な物資が運ばれていくため、寺院や公家が京都の産業を支えていたと言ってもいいでしょう。京窯の主窯をなしていたのは青蓮院宮粟田御所の領域、三条粟田口の粟田口焼です。粟田口焼の特徴は、茶陶のなかでも伝統的な格式を持った茶入の制作で、作兵衛、利兵衛などの陶工の名が知られています。粟田口焼では、唐物茶入の他に、呉器手、伊羅保手の高麗茶碗の写しが多く制作されています。これは当時の茶の湯数寄者の趣向を示しており、直接、陶工たちに好みの茶道具の制作を依頼していたことがうかがわれます。

 こうした傾向は、他の八坂焼、清水焼、音羽焼などでも同様であり、とくに侘びた味わいが賞玩された高麗茶碗の写しが各窯で盛んに制作されていました。その他、『隔蓂記』によると、1644年(寛永21年)年に八坂焼の陶工清兵衛が華南三彩系の「紫色、青色交薬之藤実之香合」を制作しています。また、鉄釉による釉下絵付の鉄釉(銹絵)も制作されていたようで、『古今和漢諸道具見知鈔』には、清水焼を指して「宋胡録、日本にて清水焼の風に似たる物也」と記述されており、初期の清水焼においては鉄釉の絵付陶器が焼造されていたことが推測されます。