やきもの曼荼羅[50]日本のやきもの32 美濃焼(一)

美濃焼の歴史 

 美濃焼とは、岐阜県の南東部、東濃地方で焼かれたやきものを総称しての呼び方です。尾張(愛知県)の瀬戸焼に対して、美濃(東濃地方)で焼かれたやきもののこと美濃焼といいます。この呼び方が定着したのは、明治以降のことです。 

 桃山時代、わが国の窯業の中心は美濃でした。志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部など、桃山時代独得のやきものが、美濃で焼かれていました。しかし、美濃焼が新たに注目されるようになったのは、昭和に入ってからのことです。陶芸家・荒川豊蔵が美濃大萱(おおがや)の牟田洞(むたほら)古窯跡で、「てのひらに収まるほどの小片だが、ゆずはだで、火色の小さな筍(たけのこ)が一本描いてある」陶片を発見したのは、1930年(昭和5年)4月11日のことです。この発見によって、志野の生産地は瀬戸というそれまでの定説がひっくり返り、昭和の大スクープになりました。荒川豊蔵や加藤藤九郎ら陶芸家たちによって、桃山陶の再興がはじまり、近代の数寄茶人たちが美濃焼の茶陶を蒐集したことで、美濃焼が新たに注目されるようになりました。 

 美濃焼の全盛は桃山時代から江戸時代初期ですが、その歴史はずっと古く須恵器から始まります。陶磁学者・小山冨士夫の『日本の陶磁』(中央公論美術出版刊)によると、土岐津の近くには須恵器の窯跡があり、多治見の池田と生田には平安時代の灰釉(かいゆう)陶の窯跡があります。また、鎌倉時代には山茶碗を作った窯跡が、虎渓山(こけいざん)・小名田(こなだ)・浅間(せんげん)・大萱(おおがや)・太平・大平から御嵩(みたけ)への峠、多治見の大畑、笠原・市之倉・妻木・下石(おろし)などに散在しています。室町時代には、瀬戸そっくりの朽葉色や黒褐色の釉薬の掛かった古瀬戸も作っていました。笠原と妻木のさかいの丘陵の背に、南から北へ一直線に、大グテ、グミノ木洞(ほら)・窯根・窯洞(かまほら)・西山などの窯跡があり、また土岐川を隔てて五斗蒔(ごとまき)の日向(ひなた)にも室町時代の古瀬戸の窯跡があります。釉胎・器形・作風はどの窯もほぼ同じですが、文様はなく、器の種類は瓶子(へいし)・四耳壺(しじこ)・仏花器(ぶつかき)・平茶碗などです。また、天目茶碗と黄瀬戸の菊皿なども作っています。 

志野梅鉢文香合

志野梅鉢文香合 桃山時代・17世紀初期 高5.1センチ 径4.9センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵

 こんもりと盛り上がった蓋に小さな紐を付けた蜜柑形の香合で、釉下には鉄絵で梅鉢の文様を散らし描きにし、風雅な韻を含んだ香合に仕上げています。柔らかいもぐさ土にしっとりとした志野釉が掛かり、なんとも言えない魅力を醸し出しています。 

志野とは

 志野とは、桃山時代に美濃で焼かれた長石釉(志野釉)を掛けたやきもので、16世紀末に美濃の大窯で焼かれていますが、茶陶と中国陶磁写しを含めた量産品の二つの潮流があります。茶陶としては、茶碗、水指、花入、香炉、香合、鉢、向付、水注、天目、徳利、杯などが生産されましたが、その一方で、中国陶磁写しの量産器種としては白磁・青花写しの皿などがあり、さらに灰釉による量産器種を引き継いだものとして碗・小碗などがあります。 

 志野は日本ではじめて下絵付で加飾されたやきものと言われています。鉄絵具で絵を描くという技術は、外来陶磁の影響かと思いますが、京都市内の発掘現場からは大和絵風の軟質陶器の皿なども出土していますので、そうした消費地からの影響も考えられます。しかし、美濃の特徴は、その自由な筆致で描かれた薄や芦、野草などの文様であろうと思います。 

志野の造形と文様について 

 志野の造形の特徴について、茶碗、花生、香合、水指、食器の順に述べることにいたしましよう。 

茶碗 室町時代、瀬戸や美濃では天目茶碗が茶碗の主流をなしていました。美濃で白い釉(うわぐすり)がはじまったとき、その釉をやはり天目茶碗に掛けていました。先に触れた武野紹鷗所持の二つの白天目茶碗がそれです。茶碗の形式は、時代によって変化しますが、室町時代末期には半筒形の茶碗が誕生します。この半筒形の茶碗は、はじめ黒釉の掛かった瀬戸黒だけでしたが、天正年間(1573~1591)後期になると、長石質の白釉の掛かった茶碗、すなわち志野茶碗が焼かれるようになります。博多の豪商・神谷宗湛(1551~1635)がが「茶碗ハ瀬戸茶碗 ヒズミ候 ヒヨウゲモノナリ」(1599年・慶長4年の古田織部茶会)と評した通り、やがて歪みのある沓形茶碗が流行するようになります。その代表をなす名碗が、三角形に歪ませた国宝・志野茶碗 銘「卯花墻」(三井記念美術館蔵)です。他に、半筒形の名碗としては、志野茶碗 銘「羽衣」(個人蔵)や銘「広沢」(湯木美術館蔵)などが挙げられます。変わり種としては、近代の数寄茶人・松永耳庵が命銘した豪快な器形の志野茶碗 銘「蓬莱山」(個人蔵)などがあります。 

花生 志野の花生は極めて少なく、5点しかないと言われています。そのうちの一つが、中国の青磁の花生を倣った「無地志野柑子口(こうじくち)花生」(逸翁美術館蔵)であり、いま一つが筒形のいわゆる旅枕と呼ばれる「志野草花文旅枕花生」(畠山記念館蔵)です。 

香合 志野には優れた香合が多くあり、なかでも江戸時代以来、一文字形と呼ばれる円形の平らな香合は声価が高いようです。唐物香合の形を倣ったものに白釉を掛け、草花や菱畳文などの絵を描いたものや、唐物とはまったく趣の異なる和物香合を作り出しています。 

水指 志野の水指の器形は、やや裾張り気味に立ち上がった筒形で、口作りは矢筈口(やはずぐち)、また姥口(うばぐち)風に作られています。茶陶研究の第一人者として知られる林屋晴三氏は、「美濃では従来その祖形なるものがないのに対して、備前では桶形からしだいに変化して桃山時代に独特な矢筈口形式から完成するまでの経過がたどれることから、備前の矢筈口水指を手本として、志野で作らせたものであったと私は考えている」(『日本陶磁全集15 志野』 中央公論社刊)と記しています。重要文化財の「志野葦文矢筈口水指」(畠山記念館蔵)や「志野山水文矢筈口水指」(香雪美術館蔵)などが有名です。 

食器 志野で最も数多く焼かれたのが皿や鉢などの食器です。大窯で焼かれた志野の食器は、器形も単純で文様も簡単なものが多いといわれています。大作は少なく、形を四方にしたものが多いのが特色です。文様は、薄や芦、野草、沢瀉(おもだか)などを自由な筆致で描いた皿や鉢、筒向付など、味わい深いものがあります。 

志野樹木文鉢

志野樹木文鉢 桃山~江戸時代・17世紀前期 高7.3センチ 口径26.7センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵 

 志野の大鉢には、やや大振りの平鉢と長四方の額のような形をした平鉢とがありますが、この朝顔形に開く深鉢はその前者であり、志野の基調をなす鉢です。鉄絵が薄かったのか、志野の白釉が厚いからか、鉄絵がはっきりとは映らないこともこの深鉢の特徴です。口辺と側面とに丸い小さな貼付文、いわゆる擂座(るいざ)を飾り、高台は削らずに三足を付け、その脇に目跡(*)が残っています。 

*目跡 器物の見込みにある重ね焼きの跡。器物の熔着を防ぐために、器物と器物の間に土塊・砂・貝殻などを置くために生じる。