やきもの曼荼羅[48]日本のやきもの30 薩摩焼(二)

黒もんと白もん

 薩摩焼の黒釉陶を称して、俗に「黒もん」といいます。薩摩藩では、黒釉陶を基本として、これに藁灰の白濁釉を加えて茶道具を焼き、京都や大阪に出荷しました。黒釉茶入を中心に、茶碗、水指、建水、懐石道具などが焼かれていました。初期の頃には、藩窯である竪野(たての)系の「宇都(うと)窯」「御里(おさと)窯」「竪野冷水(ひやみず)窯」と、民窯である「苗代川(なわしろがわ)窯」とで「黒もん」が焼かれています。珍しいものでは、東京国立博物館蔵の「黒釉象嵌立鶴文茶碗」があり、茶碗の半分に黒釉を掛け、素地の部分には立鶴の象嵌があります。

 一方、白地陶胎(しろじとうたい)に透明釉を施した薩摩焼を、俗に「白もん」といいます。この「白もん」が誕生したことで、色絵薩摩が発展します。薩摩焼は、桃山から江戸前期には藁灰釉の白濁釉を用いていましたが、この白薩摩は、一種の長石釉を白釉として使用しています。朝鮮から持参した白土を原料として白色系の上手の白いやきものを作り、「御判(ごはん)手」と称する藩主の款印を捺したものや「火計(ひばか)り手」と称するものが生まれました。「火計り手」は開窯初期の作品と言われていましたが、現在では17世紀後半に藩窯の「竪野冷水窯」で焼かれたと推測されています。東京国立博物館蔵の「白釉蓮葉茶碗」や「白釉茶碗」が有名です。「白もん」は、江戸後期には苗代川窯でも焼かれました。

 『角川日本陶磁大辞典』の白薩摩の項では、「17世紀から18世紀の白薩摩の釉色は還元焼成されて青味が深く、涼しげであるが、18世紀後半から19世紀になるに従い、酸化焼成されて黄味を深めていく。黄味の強いものは黄薩摩ともいわれている」と解説されています。

白釉鉄絵茶碗 竪野冷水窯 銘「冬山」

白釉鉄絵茶碗 竪野冷水窯 銘「冬山」 江戸時代・18~19世紀 高9.0センチ 径13.3センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵

 この「白釉鉄絵茶碗」は、鉄絵であたかも雪深い山道をゆく旅人の履物の足跡のような連続模様が描かれているので、現在の所蔵者が「冬山」と命名したと聞いています。「白もん」ならではの魅力が彷彿として感じられます。高台の際には、「竪野冷水窯」の製品であることを示す「千鳥印」が鉄絵で表されています。何ともおっとりとして、じつに優雅な茶碗です。

苗代川系の窯

 苗代川系の窯は、1598年(慶長3年)に朝鮮半島から陶工42人が渡来し、串木野(くしきの)の島平(しまびら)や神之川に上陸し、一部が下名字北本壺屋に開窯したことに始まります。藩窯として始まる竪野系の窯とは違って、苗代川系の窯は民窯として始まりました。朴平意(ぼくへいい)が中心となって「串木野窯」を興し、1599年(慶長4年)には大型の朝鮮式半円筒形単室傾斜窯を築きました。そこで焼かれた黒い釉薬の日常雑器が、いわゆる「黒もん」です。しかし1934年(昭和9年)の発掘調査によれば、「火計り手」と思われるような白土で白い釉薬の陶片もわずかながら出土しているので、「白もん」も焼かれていたと推察されます。1614年(慶長19年)に朴平意が領内で白土を発見し、藩主が非常に喜んだと「留書」や「苗代川文書」などに記載されていますが、6代目朴平意の覚書「苗代川焼物由来記」には、白土の発見を寛永初年とし、中納言がこれを賞したと記されているので、これは2代目朴平意の事績と考えられます。

 関ヶ原の戦いで藩主・島津義弘が西軍に加担し敗れたため、藩の庇護を絶たれた上、住民とのいさかいもあって、「串木野窯」での稼業は4年ほどで止まります。苗代川に移った朴平意は、1604年(慶長9年)に「元屋敷窯」を開窯し、再び藩の庇護によって竪野系の諸窯と共に、薩摩焼の主流の窯として盛行します。1650年(慶安3年)頃、新たに「堂平(どひら)窯」を興し、1669年(寛文9年)には、鹿児島在住の渡来の陶工25家を苗代川五本松に呼び寄せ、新窯を開窯して製陶に従事させます。その後、生産規模の拡大に伴って増加した陶家のうち30家を大隅国笠野原に移住させ、1764年(宝永元年)新しく鹿屋(かのや)に「笠野原(かさんばい)窯」を開窯、1764年(明和元年)には「御定式(ごじょうしき)窯」となって藩直営の窯になったと言います。1782年(天明2年)白薩摩の捻細工師が置かれ、細工物がこの頃から始まります。また、1840年(天保11年)には苗代川でも錦手が焼かれるようになります。
1846年(弘化3年)には村田甫阿弥を派遣して、いわゆる「内コク窯」と「外コク窯」を設けて黒もんと染付白磁を試みています。同じ頃に「南京皿山(なんきんさらやま)窯」も開窯し、本格的に染付白磁を焼造しています。明治維新になると、すべて会社組織に移り、1873年(明治6年)にウィーン万国博覧会に出品された色絵金襴手の大成功によって、世界に向けて雄飛する「薩摩金襴手」の代表的な窯として繁栄しました。

色絵金襴手象置物

色絵金襴手象置物 明治時代・19世紀 高14.8センチ 径26.3センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵

 明治時代に作られた、いわゆる色絵金襴手の作品です。輸出陶器として、欧米の富裕層には人気の高かったようです。象をモチーフに華やかな装飾が飾られています。

薩摩金襴手

 薩摩焼が白もんを素地に使って上絵付けをはじめたのは江戸時代後期からで、さらに金泥を焼き付けた金襴手が登場するのは19世紀に入ってからと推定されています。金襴手の開発は、竪野冷水窯で進められ、江戸末期には民窯の苗代川窯でも焼造されました。苗代川窯での発展は、1857年(安政4年)の藩主・島津斉彬(なりあきら)による磯御庭焼の陶磁器製造所苗代川支部の開窯が機となり、明治時代には盛んに海外に輸出されました。