やきもの曼荼羅[23]日本のやきもの6 大素人の系譜

大素人・本阿弥光悦

 本阿弥光悦が清貧の人であったことは前回ですでに触れましたが、彼は本業(刀の目利き、研磨、浄拭)の傍ら自らの芸術的才能を多方面に発揮した人です。例を挙げるならば、華麗な下絵料紙にみる闊達(かったつ)な書は、手紙の書体とはまったく違う表現としての書体であり、鋭い造形をなす楽茶碗は、それまでの没個性的な茶碗にはない、まさに光悦の人格を表現しています。また、国宝「舟橋蒔絵硯箱」の大胆な構図、光悦本の気品あふれる書物美は、日本美術史上類のないものです。光悦が徳川家康より洛北鷹ヶ峰の地を拝領したのは、1615年(元和元年)、58歳の時です。その鷹ヶ峰に一族・縁者、職人たちとともに移り住み、芸術村をつくりました。光悦が創作三昧の日々を送り、やきものを作りはじめるのも、そのころのことです。光悦は、すぐれた芸術家であるとともに、有能なアートディレクターでした。それを成立せしめた条件とは、京都の裕福な上層町衆の出自であったこと、高い教養を身に付けていたこと、そしてなによりも自由な精神をもった道楽人であったことなどが挙げられます。のちに尾形乾山(けんざん)がやきものに興味をもったのも、恐らく光悦の作陶の影響と思われます。

舟橋蒔絵硯箱(国宝)本阿弥光悦 東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp)

文人陶工・尾形乾山

 尾形乾山は1663年(寛文三年)、京都の呉服商雁金屋(かりがねや)・尾形宗謙の三男として生まれました。兄は琳派を代表する画家・尾形光琳(こうりん)です。光琳・乾山兄弟がそれぞれの才能を発揮できたのも、雁金屋という裕福な上層町衆の家に生まれ、その遺産の大部を譲られたからです。天才肌で奔放な光琳とは違い、乾山は内省的な好学の徒でした。彼は幼くして祖母や母、姉妹といった身内の死に直面し、父の死後間もなく、深省(しんせい)と改名します。この「深く省みる」という号には、なにやら乾山の悲愁な思いが込められているように思います。因みに、乾山は窯の名前です。ところで、雁金屋の初代道柏(どうはく)の妻は光悦の姉であり、その関係で尾形家は代々本阿弥家の芸術家気質の影響を受けることになります。乾山は、二十歳のころ光悦の「陶法伝書」をその孫の本阿弥光甫(こうほ)より譲り受け、樂家四代一入(いちにゅう)の指導で楽焼の研究をはじめます。樂家に婿入りした五代宗入(そうにゅう)は、乾山の従弟(いとこ)にあたります。1689年(元禄二年)、27歳で御室(おむろ)に習静堂(しゅうせいどう)を建てて隠棲(いんせい)し、1699年、「焼物商売」を許可されて鳴瀧泉谷の地に築窯しました。また、野々村仁清からも『陶法秘伝書』を授かっています。乾山が「焼物商売」をはじめたころ、京都では伊万里焼が流行し、京焼は不振の時代であったようです。そこに登場したのが王朝古典や漢画的主題を陶画に表現した乾山焼で、素地に白化粧を施し、銹絵で絵を描き、脇には詩賛が書かれています。その他にも、欧風的デザインのものや琳派的意匠のものなど、乾山焼は多士済々です。 

尾形乾山作「銹絵染付梅図茶碗」

銹絵染付梅図茶碗 尾形乾山(高7.5センチ 口径10.2センチ 高台径5.4センチ)

 尾形乾山作「銹絵(さびえ)染付梅図茶碗」は、丁寧に轆轤成形された半筒形の茶碗で、口縁部には鉄釉で口紅が施されています。白化粧した胴部の一方に、槍梅(やりうめ)の図を描き、銹絵(鉄絵)で枝を、染付で梅花を描いています。筆にたっぷりと水を染み込ませて、たらし込み風の効果をねらった濃淡で、いかにも乾山好みの琳派的意匠です。他方には、「造化功成秋兎毫乾山省書」の漢詩に「尚古」の方印が銹絵で記されています。この「造化の功は成る、秋兎(しゆうと)の毫(ごう)に」の漢詩は、南宋の詩人・陳與羲(ちんよぎ)の「張矩臣(ちょうくしん)の墨梅(ぼくばい)に和す」という絶句五首より採られたもので、墨梅は墨絵の梅を指し、まさに槍梅の図に対して詠まれた漢詩です。
乾山が若くして隠棲したのは、『徒然草』で知られる吉田兼好に憧れたからだといわれていますが、その隠棲は長く続かず、生活のために「焼物商売」の看板をかかげることになります。しかし、乾山焼に記された詩賛や落款、また書画を眺めていると、やはり彼は文人を志向していたように思われます。文人とは詩書画を余技として楽しむ人のことですが、なによりも職業と見られることを「俗」として嫌いました。のちに青木木米などが登場して文人陶工と呼ばれますが、それはみな教養を身に付けた上層町衆たちの道楽でした。道楽とは、書いて字の如く「道を楽しむ」ことですが、光悦の芸術はその道楽をはるかに超えた、職業以上趣味以上の存在であったし、乾山は「焼物商売」の看板を掲げて職業としましたが、その思いはやはり文人精神にあったように思います。

銹絵染付梅図茶碗 漢詩と方印の側

近代の大素人・川喜田半泥子

 そうした光悦、乾山の陶芸に憧れて作陶をはじめた近代の川喜田半泥子の生き方(伊勢の豪商川喜田家十六代当主で、半泥子は売るためにやきものをつくらなかった)を見ていますと、私は日本の文化の中には「大素人」という職業作家とはまた違う芸術の系譜があるように思えてなりません。「大素人」それは作り手としての自由な精神、すなわち生き方をいいます。東京国立博物館名誉館員の林屋晴三氏は、晩年に本阿弥光悦・川喜田半泥子・細川護熙の三人展を企画されていましたが、実現することなく亡くなりました。もし、この展覧会が実現していたら、まさに大素人の展覧会であったと思います。