有田教育の父・江越礼太
明治の有田の偉人の一人に江越礼太(れいた)がいます。1881年(明治14年)わが国最初の陶器工藝学校「勉脩学舎(べんしゅうがくしゃ)」を創設し、子どもたちの実業教育にいち早く尽力した「有田教育の父」と呼ばれている偉大な教育者です。
江越礼太の生い立ち
江越礼太は1827年(文政10年)11月11日、小城(おぎ)藩士・江越仁兵道順(みちより)の長男として誕生します。幼名は愛吉郎、諱(いみな)は道容(みちやす)、後に礼太と改名します。号は如心、三酌翁といい、経学(儒学)、詩学、書画、英語に優れていました。小城藩校興譲館(こうじょうかん)に通学し、佐賀弘道館教授・草場佩川(はいせん)の家塾で漢学を修めます。1851年(嘉永4年)江戸遊学を命じられ、幕府の儒臣・古賀謹堂に漢学を学びます。1854年(安政元年)ロシアの使節プチャーチンが和親通商を求めて長崎に来航した時、謹堂は幕府勘定奉行・川路聖謨(としあきら)に随行して、外交の要務に当たります。その時、江越も同行します。その傍ら、洋学者で津和野藩の西周(あまね)や、津山藩の津田眞道の両氏から英語を学びます。
1862年(文久2年)小城藩校興譲館教師、翌年に請役付、1866年(慶応2年)旧藩主の近習役を勤めます。1868年(明治元年)佐賀藩主・鍋島直正(閑叟・かんそう)の命を受け、有田皿山代官・百武兼貞は石炭焼成による有田の陶磁器の製法改良に取り組みます。1870年(明治3年)小城藩は久原の地に炭鉱を開き、英国人鉱山技師・モーリスや工部省電信頭・石丸虎五郎がこの事業に参画します。1869年(明治2年)江越は病にかかり長崎の蘭医ボードインの治療を受けた後、長崎訳官・佐藤鱗太郎から英語を研究しています。そして、蔵春亭長崎支店・久富龍圓(りゅうえん)、石丸虎五郎、モーリス、山代郡代・梅崎源太郎らと親交を深めます。その翌年、帰郷した江越は伊万里山代(現・伊万里市久原)に移住し、英漢学(経学、儒学)塾「経綸舎(けいりんしゃ)」を開き、モーリスが英語を、樋渡重政が算数を担当しました。門下生には、工科大学教授の中野初子・志田林三郎、蔵春亭久富製磁所の久富季九郎がいます。
勉脩学舎の創設と江越礼太の建学の精神
1870年(明治3年)久富龍圓の紹介で有田を訪れた江越は、深川栄左衛門(後の香蘭社社長)ら有志と懇談します。その時、江越の子弟教育に大いに感心を示した有志は、学制が発布される前年に自力で白川学校を誕生させます。1872年(明治5年)明治政府によって学制が発布され、同年4月、白川小学校が創設されると、有志の懇請を受け初代校長として有田へ赴任、家族と共に皿山代官所跡地に住みます。生徒は江越の長男孝太郎(海軍機関少将)、次男米次郎(有田町長)、自宅兼白川小学校宿舎「亦楽楼(えきらくろう)」には久原から永尾喜作(西山代村長)、藤山雷太(大日本精糖社長)がいました。前年の廃藩置県で小城藩の炭鉱は廃止となり、江越の経綸舎も閉鎖となったので、江越の心も動いたのでしょう。
江越は、有田の陶磁器産業を発展させるには子弟に高度な理論と製陶技術を伝承させること、すなわち日本で最初の実業教育の必要性を唱えました。1877年(明治10年)、1881年(明治14年)の内国勧業博覧会には白川小学校の生徒の作品が出品され、指導した江越にも賞状が授与されました。
有田陶器工藝学校の設立を目指して、佐賀藩主鍋島直大(直正の長子)、深川栄左衛門ら町内有志から寄付を集め、江越自身も自己の所有する唯一の財産公債証書を売却し、その360円(現在の720万円程度)を寄付します。そして1880年(明治13年)自ら上京し、郷土出身の副島種臣・大隈重信・大木喬任・佐野常民などから多くの寄付金を得て帰郷します。また江越は、三条実美・柳原前光・伊藤博文にも会い、有栖川宮熾仁親王殿下の御親筆による「勉脩学舎」の大額を拝受します。勉脩学舎の教習科目には画学部(陶画)、技術部(製陶)、理学部(窯術)の三部が設置され、教師には小山直次郎(轆轤細工)、岩尾兼太郎(轆轤)他、成富椿屋(日本画)らがいました。しかし、1883年(明治16年)頃には生徒が集まらず中止となりますが、その建学の精神は、有田徒弟学校、有田工業高等学校へと受け継がれました。
江越礼太の建学の精神と、それを支えた有志の情熱
江越は1891年(明治24年)に白川小学校長、白川尋常小学校、有田高等小学校長、勉脩学舎長を退職します。町民あげて盛大な慰労会を催し、その功績を称えて生涯年金200円(現在の400万円程度)を贈ることになりました。しかし、翌年旧知の中林梧竹(小城出身の書家)が東京から長崎へ来るという知らせを聞いて赴き、そこで病のため亡くなります。享年65歳。葬儀は有田で行われ、現在も白川小学校(現・有田小学校)を見下ろす白川の墓地に眠っています。1898年(明治31年)には町内有志が江越の功績を長く後世に伝えるため、陶山神社の境内に「江越如心之碑」を建て、1914年(大正3年)より毎年「江越祭」を開催していましたが、今は絶えているようです。大隈重信から中央に出てはと勧められた時、江越は「私は有田の人たちと交わり、有田の陶業を育てるこが仕事と思っている。私より教え子たちを心配してくれ」と断ったといいます。日本の近代化の幕開けとなった明治の初めに、実業教育と英語教育にいち早く取り組んだ江越の建学の精神、それを支えた有志の情熱を、今一度有田の人たちに思い出して欲しいと思います。