やきもの曼荼羅[4]料理と器 北大路魯山人(其の三)

漢学の大家・細野燕臺との出会い

 1916(大正5)年1月28日、魯山人は京橋の老舗書肆・松山堂の藤井利八の娘・せきとの結婚を機に、東京神田駿河台東紅梅町に新居を構え、「古美術鑑定所」の看板を掲げます。この頃は、書・篆刻と古美術品の売買、数寄者を通して知り合った竹内栖鳳(せいほう)や橋本雅邦(がほう)らの作品を扱っていたようです。1919(大正8)年には、幼馴なじみであった便利堂社長・田中傳三郎の弟・中村竹四郎と意気投合し「大雅堂芸術店(後の大雅堂美術店)」を開店します。しかし、第一次大戦後の不況で商売は思うようにいきません。そこで、店内の古陶磁に料理を盛って出すと、それがたちまち評判となり、大雅堂にて「美食倶楽部」をはじめると登録会員200名余の大盛況となります。その「美食倶楽部」がやがて「花の茶屋」「星岡茶寮」へと発展していきます。
 書と篆刻(てんこく)によって多くの数寄者と出会い、生活もそれなりに潤っていた魯山人が、なぜ古美術商になり、さらに料理をはじめることになったのかといえば、それも出会った数寄者たちの影響といえるかもしれません。中でも、細野燕臺(えんたい)という漢学の大家と出会ったことで、魯山人の人生は一変します。当時、燕臺は骨董と煎茶と漢学と書に没頭し、金沢で暮らしていました。金沢は京都と違って、新鮮な海の幸に恵まれています。美食家でもあった燕臺は、料理だけでなく器にも凝り、自ら絵付した器に料理を盛って食べていました。燕臺邸は、日常の食器だけでなく、床の間の花器や暖簾といった家具調度にいたるまで、燕臺の趣味によって統一されていました。数寄者の雄ともいうべき京都の内貴清兵衛ですら、そこまでの徹底ぶりは見せなかったといいます。1915(大正4)年、魯山人は燕臺に連れられて、山城温泉にある須田菁華(せいか)の窯ではじめて絵付を試みます。

魯山人の料理の師・太田多吉

 魯山人の天性の味覚は、すでにお話しましたが、30代に内貴清兵衛や細野燕臺といった美食家と出会うことで、彼らの旬で新鮮な素材の味を生かした食べ方を会得します。しかし、魯山人に料理(加賀料理)の真髄と作法、演出を断続的に教えたのは、金沢の料亭「山の尾」主人・太田多吉だと思います。多吉の料理は、金沢を訪れた大茶人の益田鈍翁や井上馨らの舌をも唸らせたといいます。多吉自身も茶人であり、古美術にも精通し、光悦や乾山などの名器を所有していました。「山の尾」の食器のほとんど靑華窯のものを使用していました。のち多吉から魯山人は、光悦作の赤茶碗を貰い受け、「山の尾」と命銘します。魯山人は、多吉や燕臺から学んだ美学によって、星岡茶寮の器だけではなく、建築物から景観まですべての空間演出を行ったと考えられます。

魯山人の作陶の展開

 「美食倶楽部」や「星岡茶寮」の器は、はじめ靑華窯や京都の宮永東山窯に注文します。その作陶を年代を追って見ていくと、靑華窯には古染付風・祥瑞風・呉須赤絵風・古九谷風のものを、東山窯には青磁を中心に注文します。そこには中国陶器の写しのものが多く見られます。

 1927(昭和2)年、北鎌倉の敷地内に星岡窯を築窯し、秋に初窯を焚きます。1935(昭和10)年には瀬戸式大登窯を築窯し、志野・織部・黄瀬戸など桃山陶器の再現に挑戦します。1936年には頒布会「鉢の会」がはじまり、乾山風写しや雲錦手などの鉢を制作します。1939(昭和14)年には萌黄金襴手(もえぎきんらんで)の煎茶茶碗が完成します。1952(昭和27)年には備前の俎板皿(まないたざら)などの食器や魯山人独特の銀彩作品が誕生します。ちなみに、「星岡茶寮」の料理人は「山の尾」から、星岡窯の陶工は靑華窯や東山窯から引き抜いています。のちに人間国宝となる荒川豊蔵氏も、東山窯から星岡窯に引き抜きいた陶芸家です。
 1955(昭和30)年、国の重要無形文化財「織部焼」保持者の認定を打診されますが、魯山人は辞退します。魯山人のやきものは、書と同じように中国写しにはじまり、やがて志野・織部や乾山などを経て、備前に至ります。その作陶について、川喜田半泥子が興味深い話をしています。

東の魯山人、西の半泥子

 当時「東の魯山人、西の半泥子」といわれ、二人は大変な人気でした。半泥子が著した「随筆 泥仏堂日録(でいぶつどうにちろく)」の、その十六〝北大路さん〟という文章の中で、2人の意見がぴったり合った点を箇条書きしていますので、ご紹介しましょう。

一、作品のよしあしは、技術というよりも、人格の現われだという事。
一、昔のイイ焼物は、土も釉も、其場所と其時其時の自然の産物であるから、自然の味が出るのだ、という事。
一、昔の作家は、今日吾々のいう至上芸術品の中から生まれ出たのだ、という事。
一、支那趣味は嫌いという事。尤(もっと)も山人は以前支那好きで「支那ならば牢屋でもイイと思った事とがあります」と笑われた。
一、焼物は何といっても、日本が世界一ということ。
一、玉(ぎょく)の類、目貫(めぬき)、古銭等には興味を持たぬということ。
一、茶道というものは、確かにイイものでタイシタモノだが、之を誤り伝えて居る「茶人型」はイヤだ、という事。

轆轤を廻す川喜田半泥子(石水博物館のウェブサイトより)

この箇条書きには、半泥子のやきもの観、茶の湯観がよく現れています。半泥子の轆轤(ろくろ)三昧の暮しは、禅僧の座禅三昧の生活に似ています。自らの轆轤場を「泥仏堂」と名付けたのも、彼にとって作陶は精神修行の道場であったからに違いなく、そう考えると、半泥子の茶碗は、禅画にも似ているように思われます。「半泥子」という号は、参禅の師である大徹禅師から授かったものですが、「半ば泥(なず)みて、半ば泥まず」という意味から付けられました。この泥まずとは、とらわれるなということで、禅の一つの境地を示したものです。
 半泥子の生家は三重県津市の旧家で、老舗の豪商でした。父は1歳の時に死去。若い母は離縁され、祖母の手によって育てられます。一方、魯山人は、生まれる前年に父が死去。母と離別し、里子に出されて他家を転々とします。貧富の差こそあれ、2人の境遇は似ているかも知れません。さらに、半泥子と魯山人は、プロの陶芸家がなし得なかった独創的な造形世界を造り上げました。 このことは、もっと注目されてもいいことだと思います。