やきもの曼荼羅[7]六古窯を訪ねる(其の三)瀬戸番外編

記憶の中の瀬戸と瀬戸電

 今では、名鉄瀬戸線の大曽根から終点の尾張瀬戸まで、およそ30分程度で着きますが、私の子供の頃はもっとかかったような気がします。その頃は、緑色の木造車両で、2両編成でした。その瀬戸電(私たちは瀬戸電と呼んでいました)は、別名「お濠(ほり)電車」とも呼ばれ、名古屋城のお濠の下を走っていました。やきものは瀬戸から堀川まで運ばれ、そこから船で港まで運んでいました。私の記憶の中では、「やきものも人も瀬戸電に乗ってやってきた」という印象です。
 中央線を走る蒸気機関車も鮮明に覚えていますが、小学生の頃になると、瀬戸電に乗って「せともの祭」に出かけました。中学・高校時代(名古屋学院時代)には、同級生たちが瀬戸や品野・赤津から瀬戸電に乗って通学してきましたから、瀬戸というと、どうしても瀬戸電のイメージと重なります。
 ところで、瀬戸線は1905(明治38)年に〝せともの〟を運ぶ瀬戸自動鉄道として開業しました。それ以前は、瀬戸街道を荷馬車で運んでいたようです。その中継点が大曽根で、そこで馬方(うまかた)が交代して、港までは別の荷馬車が運んでいました。大曽根には名鉄瀬戸線の他、国鉄の中央線も乗り入れて、昔は今と違って大層な繁盛ぶりだったそうです。
 幕末から明治にかけて、私の生家は大曽根で酒造業を営んでいました。酒蔵の脇には酒を呑ませる小さな店があり、瀬戸から〝やきもの〟を運んできた馬方たちで賑わっていたと聞いています。瀬戸と我が家のささやかなストーリーです。

「せともの」を産出した製陶所が集まっていた洞町の「窯垣の小径」。かつてはこの道を荷馬車が行き交っていた。

最後の大旦那・本多静雄との思い出

日本陶磁協会創立50年記念事業として刊行した陶説総目次

 私が本多静雄さんに初めて会ったのは、1995(平成7)年のことでした。日本陶磁協会名古屋支部の大会が上飯田の「しら玉」で開催され、その席上で、上座にいた本多さんの横に座るようにいわれました。そうそうたる名士が次々と挨拶に来られ、肝をつぶした思い出があります。その年の9月、本多さんから一通の手紙が送られてきました。内容は、「日本陶磁協会創立50年記念事業を何らかで貢献したい。500万円位なら陶磁協会へ寄付しても良いから、何か妙案はありませんか」いうものでした。その寄付金で『陶説総目次』を刊行し、全国の大学図書館や研究機関に寄贈しました。その後も、本多さんには随分と我儘を聞いていただきました。100歳になっても美しい顔をしておられる本多さんを見て、「100歳まで健康で生きられるのであれば、私の人生はまだ50年以上もある。」そう思った瞬間、私の人生観が変わりました。
 陶芸家の加藤清之さんは、本多さんは「さりげなく救い、さりげなく援助し、さりげなく勉強させる。狛犬も円空も古陶も自分のところに漂ってくるものは全部救い上げて、すっと寄付しちゃう。自分で所有するという気はない。一時、自分のところにとどまっているだけだ。優れた作品は安住の地にあるべきだと語っていた」といいます。

古陶磁の研究に加え、中部経済界を代表する実業家としても活躍した本多静雄氏

本多静雄の功績

 本多コレクションの中核をなすのは、猿投、瀬戸、陶邑、渥美、常滑と窯跡の発掘調査で出た大量の陶片類です。しかし、本多さんの功績はそれだけではありません。実業面では日本電話施設やエフエム愛知をはじめ、たくさんの関連会社の社長・会長を兼務し、中部経済界を代表する実業家の一人でもありました。また、文化面では東海古窯研究会の発足、素玄会と明治村茶会の設立、豊田市民芸館の創設、本多兄弟文庫の寄贈など、挙げれば切りがありません。しかし、なんといっても猿投古窯・渥美古窯の発見、陶磁器の収集、愛知県陶磁資料館の創設などの成果は、日本陶磁史研究上において特筆すべきものでしょう。そのほかにも、日本陶磁協会理事、日本民芸協会理事、翠松園陶芸記念館理事長、杉本美術館館長などを務め、1956(昭和31)年から毎年4月に、平戸橋の自宅に大勢の文化人を招いて「陶器と桜を観る会」を催しました。その会には、日本経済新聞社の円城寺次郎、作家の城山三郎、哲学者の谷川徹三、陶芸家の加藤唐九郎、画家の杉本健吉、歌舞伎役者の坂東三津五郎、日本舞踊の吾妻徳穂といったそうそうたる顔ぶれが見受けられます。本多さんは、私が出会った最後の大旦那でした。

中世古窯研究の礎を築いた楢崎彰一

 名古屋大学の楢崎彰一名誉教授によれば、中世陶器は瓷器系陶器、須恵器系陶器、土師器系陶器の三系統に分かれるそうです。須恵器系陶器から発展した備前焼以外の五古窯は、すべて瓷器系陶器とのことです。それまでは、単純に須恵器の流れから中世陶器(焼締陶)に発展したと考えられていたので、この分類は画期的なものでした。
 楢崎教授の功績は、愛知用水建設工事に伴い実施された猿投山西麓古窯跡群発掘調査に携わり、古墳時代から平安時代の陶器生産の実態を解明したことです。すなわち、灰釉・緑釉陶器を生産していた猿投窯が日本の中心的な窯業地であり、中世の瀬戸窯や常滑窯・渥美窯へ展開する母胎であったことを明らかにしました。中世陶器の三系統の分類も、その研究成果を踏まえてのものです。
 2010(平成22)年から2011(平成23)年にかけて、特別展「古陶の賦 中世のやきもの―六古窯とその周辺」がMIHO MUSEUMを皮切りに開催されました。企画は、私と愛知県陶磁資料館の井上喜久男氏で、楢崎教授に監修をお願いしました。しかし、2010年1月10日、楢崎教授は胆管がんのため死去されました。井上氏、MIHO MUSEUMの畑中章良氏と相談し、急遽、楢崎教授を追悼する企画になりました。研究編には、日本全国の研究者37人による古窯跡70余りの発掘報告が掲載され、図録は506ページという厚さになりました。楢崎教授の追悼でなければ、恐らく出来なかった貴重な図録だと思います。
 このほど発刊した別冊「太陽」の『六古窯を訪ねる』も、いろいろな方々のご協力がなければ完成しませんでした。この場を借りて心より御礼申し上げます。

別冊「太陽」の『六古窯を訪ねる』