やきもの曼荼羅[70]日本のやきもの52 萬古焼(五)

    射和萬古

    射和萬古 乾山写松文四方手鉢 高12.4センチ 長18.2センチ 幅18.2センチ パラミタミュージアム蔵

     「乾山写松文四方手鉢」は、粘土板を組み合わせて作られたもので、隅入り四方の浅鉢にしっかりとした把手が付けられています。白化粧はなく、鉄絵文様の松樹に白泥の雪図が描かれています。底面は四角で、高台を巡るように内側に浅い丸溝が彫られ、その中心に長方枠の「再興萬古」の印が押されています。

     射和萬古(いざわばんこ)は、萬古焼の祖・沼波弄山(ぬなみろうざん)の妻・八百の生家である南勢射和村(現・三重県松坂市)の豪商・東竹川家の幕末の当主・竹川竹齋(生前は彦三郎政胖〈まさやす〉)が、古萬古の復興を唱えて1856(安政3)年に始めたやきものです。竹齋は1809(文化6)年に射和村に生まれました。若い時から勤勉家で、国学・農業土木・経済学・天文学を学ぶ知識人でした。1857(安政4)年夏に内山宗五郎守忠(実際は竹川竹齋が記す)が手記した『萬古由来書』によれば、竹齋の父・政信が江戸店に常詰めしていた時、弄山没後の手代・安達新兵衛が監督していた古萬古の江戸小梅窯を訪れて、古萬古の陶土・釉薬・絵柄などの製法を記録し竹齋に伝えました。竹齋は、これを手本として「萬古の法を知る者は我より外になし」と公言して、射和萬古を開窯します。その頃、再興萬古として人気の高い有節萬古や桑名萬古に対抗して大々的な窯業を興し、江戸を拠点として全国的に販売するという計画でした。1855(安政2)年に自邸内後園に小規模な窯を築いて焼き始め、1857年には別荘に大きな窯を築いて事業を拡大します。しかし、製品の販売が幕末の国内不安と不景気からうまくいかず、1863(文久3)年には、開窯からわずか7年にして廃窯となります。
    射和萬古に参加した陶工たちには、名工といわれた江戸の井田己斎(吉六)、画工として京都から来た近藤勇(ゆう)、信楽の奥田弥助、絵付画工の服部閑鵞(かんが)のほか、信楽出身の陶工・上島弥兵衛・岩吉親子、嘉平治、市助、仁助、三造、福松と言ったすぐれた技術を持った人々がいました。しかし、古萬古を越える作品を生み出すことは出来ませんでした。作品には、鉄釉・灰釉と青磁・乾山・信楽などの写し物があります。印銘には「再興萬古」、楷書体の二重丸枠の「萬古」、「積徳園製」、「雲錦園製」、「射和萬古作場」など種々の印が使われています。

    射和萬古 俵形紀年茶碗

    射和萬古 俵形紀年茶碗 高7.4センチ 口径9.2~10.9センチ 底径4.8センチ パラミタミュージアム蔵

     この「俵形紀年茶碗」は、楕円形に変形させた口縁の端部二方が浅くカットされ、側面に俵状の線描きと桟俵部に宝珠が3個描かれています。高台は六花弁様で、内面の中心に渦巻削りがあり、瓢箪形枠に「万古」の印が捺されています。腰部に「安政四丁巳冬立春 丹丘土交白砂同量 釉土砂天艸 於萬古寫之」とあり、1857(安政4)年の新窯の初窯作品と推定されます。

    松坂萬古

     松坂萬古は、竹川竹齋の射和窯に従事した陶工・上島弥兵衛(竹齋の娘の義父)の指導を得て、1856(安政3)年に飯高郡井村(現・三重県松阪市井村町)の佐久間信春が百々川(どどがわ)畔で焼き始めた百々川焼に遡ります。そして、射和窯の廃窯後、射和萬古の陶工たちを集めて1863(文久3)年に杉山多兵衛が始めた下村焼(別名、四つ又焼)に引き継がれます。下村焼は片口・蓋物・急須・土瓶・行平・竹鍋などの日用雑器を焼いていましたが、しかし不振続きで、数回の窯主の交替を経て佐久間信春の子・芳春に引き継がれ、さらに1878(明治11)年に2代芳春が創業した錦花山焼に引き継がれます。その後大正3年に、3代目の佐久間芳◆(ほうりん)の時に松坂萬古と改名し、昭和に入ると、裏千家流茶道具の指導を受けた家元淡々斎宗匠から「松古」の松葉菱印を賜り、茶道具の印に用います。主な製品は、日用雑器の片口・土瓶・急須・徳利・竹鍋・組重・火鉢などで、印名は「萬古」楷書体丸印、「錦花山」楕円印、「錦花山焼」「萬古不易」二行方印、「射和」桜花印などがあります。

    安永萬古及び桑名萬古

     桑名は東海道の要衝の地として往来が盛んなため旅人の土産物として急須が大人気で、当時の藩主も急須作りを保護推進しました。当時は有節萬古の人気は高く、桑名においても有節の木型作りに倣った急須作りが始まりました。その中心人物が桑名矢田町に住む刳物(くりもの)師・佐藤久米造で、1839(天保10)年頃から自ら窯を築き急須を焼き始めます。久米造は長島藩に召し抱えられ、藩士にやきもの作りを教え、維新後には桑名安永町に戻り、やきもの作りを続け、その作品を「安永萬古」と称しました。1881(明治14)年、63歳で世を去ります。その教えを受けた久米造の弟子たちとその作品は桑名萬古として知られ、松岡鉄次郎・堀友直・加藤権六(権六萬古)・水谷孫三郎(孫三萬古)・加藤茂右衛門(走井萬古)・山本数馬たちが活躍し、その他に布山由太郎(布山萬古)・千葉松月・松村清吉(精陶軒萬古)・赤松東介などがいて、製陶産業として桑名萬古の一時期を担います。しかし、明治に入り四日市萬古に需要を奪われて次第に衰退していきます。

    桑名萬古 色絵菊花文六角宝瓶

    桑名萬古 色絵菊花文六角宝瓶(布山由太郎作) 高5.9センチ 口径5.4~6.4センチ 底径4.2センチ 胴径8.4センチ パラミタミュージアム蔵

     布山由太郎は1836(天保3)年美濃国に生まれ、1912(大正元)年77歳で亡くなりました。轆轤の名手で、手捻り、木型造り、タタミ造りの技にも長けていました。「色絵菊花文六角宝瓶」はタタミ造りで、薄く粘土板を伸ばして紙細工のように折って作られ、表面には布目痕 が残っています。