やきもの曼荼羅[69]日本のやきもの51 萬古焼(四)

 森有節(ゆうせつ)は江戸後期から明治にかけての伊勢国桑名の陶工です。沼波弄山(ぬなみろうざん)の死後廃絶していた萬古焼(古萬古)を再興した人物として知られています。これまでの説では、萬古焼を再興した森有節とは森与五左衛門(初代有節)のことで、その弟・千秋とともに古萬古の故郷である朝明郡小向村(おぶけむら)で再興したといわれてきました。ところが最近、萬古焼の作品および古文書・墓碑などの関連資料の再検討により、再興萬古焼は文化年間(1804~18)に、桑名本家で森与五左衛門の父・与一郎(陶祖有節)により始められたことが明らかになりました。陶祖有節の後は、桑名本家の家督を継いだ次男の千秋と、1831年9月6日に小向村に移住した長男与の五左衛門(初代有節)に引き継がれます。その後、再興萬古は有節萬古として代々継承され、昭和時代まで製陶されていましたが、6代有節を最後に廃絶となりました。有節萬古の製法は幕末の嘉永年間(1848~54)に四日市へ伝播し、以後、四日市萬古焼として定着し、三重県の地場産業として発展します。その歴史を整理すると以下のようになります。

陶祖有節:森与一郎(与市とも)1851(嘉永3)年没
初代有節:与五左衛門(陶祖有節の長男)1882(明治15)年没、千秋(同次男)1864(元治元)年没
2代有節:勘三郎(初代有節の三男)1911(明治44)年没
3代有節:俊男(2代有節の長男)1941(昭和16)年没
4代有節:一男(3代有節の長男)1949(昭和24)年没
5代有節:俊治(3代有節の三男)1960(昭和35)年没
6代有節:邦生(3代?有節の次男)2005(平成17)年没

作品及び古文書・墓碑などの関連資料に見る有節萬古

 井上喜久男氏による「萬古焼史考」(『三重県史研究』第39号 2024年)は、再興萬古焼が陶祖有節・森与一郎によって始められたことを裏付ける史料を以下のように紹介しています。

 「森与一郎の作品は文化8年(1811)箱書の朝鮮写輪花皿が確認され、また、小向神社の木造加彩狛犬一対には、阿形に『文化十三 子五月吉日 仁 有節作之』、吽形に『北㔟住 仁 有節(花押)』墨書銘が伝存しており、森与一郎有節の作品と考えられている。さらに天保7年(1836)の小向村庄屋文書には与市竃の記事が存在し、陶工の与市が製陶活動に従事していたことが記され、桑名港から国産陶器窯の指定を受けるほど優秀な陶工として評価されており、その与市は森与一郎有節と推定される。その他、天保14年(1843)墨書鳴木型原形鴨形香合に『有節作』の墨書銘が存在し、木造加彩狛犬一対墨書銘と色絵桜花文急須の箱書及び志野写蓋置の箱書の筆跡と同じで同一作者である事が判った。また、森家窯元から朝日町に寄贈された窯道具り輪花皿の土型に「天保十五 辰九月 六十二翁 有節 造之」刻銘があり、天保15年(1844)には初代有節は37才で該当しないことから、文化8年から天保年間には別人の有節が存在することが判明した。これらの作品と古文書から森与五左衛門が初代有節を称号する以前に有節を名乗る陶工が存在し、その陶工は森与五左衛門の父の与市、即ち森与一郎有節であることが明らかとなった。森与一郎有節は2代有節の証言により嘉永3年(1850)2月25日に68才で没し、かつて桑名䑳崇寺に存在した八角墓石の「森有節墓」に刻銘されている。森与一郎有節は3代有節(森俊男)時代には初代有節の父は與市と言い有節と号して、器用な性格で義眼善歯などの諸細工物を作っていたと伝承されているが、与一郎有節の性格が伝承されていても、萬古焼を再興したことについては全く触れられていないことが不可解である。これまで再興萬古焼は初代有節の業績と言われてきたが、初代有節の父与一郎有節を『陶祖有節』と称することを推唱する」

*引用文中、記載年は漢数字からアラビア数字に編集

有節萬古 色絵四季草花文大皿

有節萬古 色絵四季草花文大皿 高4.1センチ 口径32.5センチ 底径15.5センチ 胴径32.5センチ パラミタミュージアム蔵

 有節萬古特有の色絵が施された大皿で、春夏秋冬の四季の草花が表現され、梅・牡丹・菖蒲・朝顔・菊・萩・水仙が、赤・緑・白・青・腥臙脂(しょうえんじ)の各釉で描かれています。裏面は高台脇に圏線と円弧文が巡らされ、高台内は中心に渦削りと脇が丸削りされ、楕円枠の萬古印が捺されています。初代有節の箱書の共箱が添っています。

有節萬古の作品

 有節萬古の作品は古萬古とほとんど変わらない器種が多いといわれています。仙盞瓶、水注、鉢、皿、手鉢、香炉、香合、茶碗、蓋置、徳利、急須、土瓶、煎茶碗、手焙(てあぶり)、涼炉などがあり、轆轤による底部のへら削り、渦削り、高台脇の丸削りなどの有節萬古特有の技法が見られます。はじめは古萬古風の赤絵や茶陶の写しを制作していましたが、次第に独自に考案した木型造りの急須、土瓶、徳利などを制作するようになります。特に内側面に龍文様が施された隠れた装飾、急須の蓋のつまみが回る仕掛けや取っ手飾りの細工などに独創的な工夫が見られます。作品には白土と赤土の2種があります。印銘は「萬古」「萬古不易」の他、「有節」「日本有節」「萬古有節」「千秋不易」など多種です。

有節萬古の色絵

 陶芸家の森一蔵氏は「弄山の萬古焼(古萬陶)は明の赤絵を手本としたが、萬古再興では清朝陶磁器の繊細で優美な粉彩、琺瑯彩(ほうろうさい)を手本として有節に作らせたのが一連の盛絵であり、腥臙脂の作品である」と述べ、「中国清朝の琺瑯彩の臙脂紅を使って日本で始めて有節が焼物として作品を造ったと言った方が正確だと考える」(再興萬古焼における腥臙脂釉の歴史的背景とその意義 「陶説」729号 2013年12月)と興味深い文章が書かれています。

 有節萬古の色絵は不透明な色彩のもので、少量の金を原料とするピンク色に発色する有節独特の腥臙脂釉と漆黒の黒釉が特徴です。腥臙脂釉はあらゆる器物の色絵文様の中心として使われています。初代有節は文様とする絵を復古大和絵の浮田一惠の門人・帆山唯念(花乃舎)に付いて習い、草花文を主体とした復古大和絵の文様を作品の上に色絵付しています。色絵付製品は白化粧地に色絵付されたものと急須や土瓶に多い無釉地に色絵付されているものがあります。

有節萬古 腥臙脂釉蓋物

有節萬古 腥臙脂釉蓋物 高8.2センチ 口径17.3センチ 底径12.7センチ パラミタミユージアム蔵
有節萬古 腥臙脂釉蓋物(蓋と身)

 底部を除いて表面全体にピンクの腥臙脂油が施され、身部の側面には龍文が描かれています。蓋および身部の内面には色絵付が施されています。身の内面底部には丸紋・霊芝文様帯の中に山水文様が描かれ、蓋の内面には草花文様帯の中に象が描かれ、有節萬古特有の文様と釉薬が備わった作品です。印銘は高台内に楕円枠の萬古印がある。