やきもの曼荼羅[61]日本のやきもの43 京焼(四)

    古清水色絵松竹梅文高坏

    古清水色絵松竹梅文高坏 江戸時代・18世紀 高10.2センチ 底径10.5センチ 口径23.6センチ 岩佐静子寄贈 京都国立博物館蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

     古清水焼(こきよみずやき)の代表的作例の作品で、轆轤(ろくろ)挽きの木製高坏(たかつき)を写したものです。天板いっぱいに描かれた松竹梅文は金彩をふんだんに用いて、繊細な筆致で華麗に描かれています。天板は縁をつまんで輪花とし、脚部から外へ向かって徐々に薄く仕上げられています。その脚部には唐草文を巡らし、七宝、宝尽し文を散らしています。

    古清水という名称について

     「古清水」という名称は、18世紀末期から19世紀初頭の江戸時代後期に京都でも有田焼のような磁器が開発され、清水五条坂周辺の陶工たちがその中心を担ったため、京都で生産される磁器製品が「清水焼」の名で呼ばれるようになった結果、それ以前の京焼の色絵陶器を総称して「古清水」と名付けられました。幕末の陶器書『陶器考』には、信楽の項目に「色絵彩シキ物ハ古清水ト云来ル」とありますので、古清水と言えば色絵陶器を指していたことが分かります。京都の色絵陶器は、17世紀後半の野々村仁清の御室窯(おむろがま)に始まりますが、その影響により京都の諸窯でも色絵陶器が生産され始めます。しかし、古清水には、仁清陶や乾山陶のような躍動感のある筆致の絵画的意匠はほとんど見られません。古清水では、紺色と緑色の色釉を用いたもの、それに赤色や金彩などの色釉を加えたものなどが生産されています。1694(元禄7)年の『古今和漢諸道具見知鈔』によると、御室焼(2代目)、清水焼、黒谷焼、押小路焼などのやきものはどれも似通ったものを生産していたとあり、ことに色絵陶器では器種も作風も他と区別ができないほどであったようです。その原因は、仁清や乾山が個性的で陶印、書銘などもあって作品が明確に区分されるのに対し、古清水の諸窯のやきものは一部の例外はあるものの、多くは無印・無銘であったからです。そのため古清水の諸窯は個々の判別を行うより、やきもの群として把握せざるを得ないのが現状です。しかし、京都の文化・伝統を背景とした雅で、しかも機知に富んだやきものの特徴は継承されています。また、本来は木工・漆器で作られてきたものがやきもので作られいます。古清水には雅楽の楽器・笙(しょう)や、『栄華物語』『徒然草』などの古典文学の和綴冊子本など、いかにも優雅な器形のものが取り入れられています。一方、紋様は西陣織、友禅染、京蒔絵、京七宝などをデザイン源とした片身替り、亀甲紋、七宝紋などの有職紋様、秋草、菊、桜、蔦などの草花紋様、流水に紅葉の竜田川意匠の古典紋様などがあり、また松竹梅、蓬莱山、鶴亀などの吉兆慶寿の紋様も多く描かれています。

    将軍家・禁裏・大名家の御用を務めた粟田口焼    

     粟田口焼とは、京都市東山区三条通蹴上粟田口一帯に所在した窯場で焼かれた京焼のことを指します。1624(寛永元)年に瀬戸の陶工・三文字屋九右衛門が青蓮院領内今道町に窯を築いたことに始まります。『明和七年御境内東町割印沽巻改帳』を見ますと、粟田口東町の町内の家屋敷36軒のうち29軒が陶業者によって占められており、同業者町が形成されていることが分かります。18世紀中ごろに三文字屋が没落すると、1756(宝暦6)年には錦光山(きんこうざん)二代茂兵衛と岩倉山吉兵衛が将軍家御用を拝命し、新たな展開を迎えます。当時、粟田口焼では、錦光山、岩倉山の窯元を中心に宝山、帯山、暁山、洛東山の6軒の窯元と14軒の陶家が結束し、一体化を図っていました。錦光山・岩倉山は将軍家、帯山は禁裏、宝山は大名家の御用を務めています。この粟田口焼と並ぶ勢力として発展したのが清水五条坂地域の清水焼で、1782(天明2)年には京焼を諸国に販売する焼物問屋組織が形成され、新しい窯元陶家が次々と誕生します。その五条坂・清水の諸窯で磁器の生産が始まると激しい競争となり、明治維新後は海外貿易に活路を求めて京薩摩の名で好評を博しますが、現在では窯場そのものが消滅してしまいました。

    色絵銹絵菊栗文銚子

    色絵銹絵菊栗文銚子 江戸時代・18世紀 高10.2センチ 底径10.5センチ 口径23.6センチ 京都国立博物館蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

    この古清水の銚子は、卵色の素地の上に、菊紋を濃い藍色、緑色、金彩を用いて描き、栗紋は銹絵で描いた、古清水の特徴をよく表した作品です。京焼の特徴は、王朝文化の影響による雅にありますから、落ち着いた優美な色調に仕上がっています。

    新生清水焼の磁器生産

     清水五条坂には、海老屋、亀屋、伊勢屋、音羽屋、井筒屋などの屋号をもつ陶家があり、なかでも海老屋(清水六兵衛)、亀屋(和気亀亭)、伊勢屋(水越与三兵衛)などが当時もっとも積極的に作陶活動を行っていました。このうち清水六兵衛家は初代六兵衛(1738~99)が、摂津国島上群(現・大阪府高槻市)より五条坂に出て、1771(明和8)年に一家を立てました。初代は御本(ごほん)、伊羅保(いらぼ)、焼締めなど土味を見せるものから瀬戸釉、飴釉、釉下鉄絵など清水焼本来の作風を得意としました。十九19世紀に入ると清水焼は急速な発展を見せます。『沢屋吉兵衛文書』を見ますと、1822(文政5五)年に京焼問屋が扱ったやきものでは粟田口焼が6500両に対し、清水焼は7500両とこれを上回り、伝統の粟田口焼を凌ぐまでになっています。こうした新生清水焼が京焼で上昇をもたらした原因は、何といってもこの地域における磁器生産の開始にあります。京焼における磁器開発は寛永年間に九州の有田焼磁器が京都にもたらされて以来の悲願でした。尾形乾山も試作を試みますが、本格的な磁器の焼成には至りませんでした。そうした状況のなかで、京都で最初に磁器の焼成に成功し、京焼に新風をもたらした先駆者が奥田潁川(えいせん)です。