色絵陶器の誕生、野々村仁清
肥前色絵磁器と時期をほぼ同じくして京都の色絵陶器が誕生しました。磁器と陶器の違いはありますが、陶器の器肌に白化粧を施し、色鮮やかな上絵具で模様を描いた色絵陶器です。色絵陶器が出現すると、唐物(からもの)・高麗物(こうらいもの)写し、下絵付け、軟陶色釉などを中心に生産されていた京焼(粟田口焼、八坂焼、音羽焼、清水焼)などの諸窯は大きいな転換期を迎えます。この色絵を京焼にもたらしたのが、江戸前期の陶工・野々村仁清(生没年不詳)です。仁清は俗名を野々村清右衛門といい、京都市右京区の御室(おむろ)仁和寺門前で御室焼を主宰していたことから、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」の字を取って「仁清」の印銘を陶器に用いました。その姓から丹波国野々村(現・京都府北桑田郡美山町)の出身で、仁和寺の日次(ひなみ)記である「御室御記」には「壺屋清右衛門」「丹波焼清右衛門」とあるので、もとは丹波焼の陶工であったと推定されています。江戸時代初頭に優れた茶入を制作した瀬戸焼の窯で修業したことが、仁清より伝授された陶技を記述した尾形乾山の「陶工必用」に書かれています。御室焼では茶陶を圧倒的に多く制作しており、その器種は茶入、茶碗、茶壺、水指、建水、花生、香合、香炉、棗など茶席道具全般に及んでいます。仁清はロクロの名手と言われており、私もその茶入を幾つか見たことがありますが、非常に薄く軽かった印象があります。特に唐物写しの茶入の出来栄えは、本歌をもしのぐといわれています。京都の泉屋博古館には、仁清作の「唐物写茶入」19種が仕覆(茶道具を入れる袋)とともに所蔵されています。さらに尾形乾山著の陶法伝書『陶工必用』には、仁清がやきものの釉法についても幅広い知識を身に付けていたことが書かれており、唐呉須(からごす)、呉器手(ごきで)、伊羅保手(いらほで)、刷毛目(はけめ)など中国陶磁、朝鮮陶磁の釉法や、信楽、唐津、上野(あがの)、黄瀬戸、織部など国内各窯の手法にも精通していたことが記述されています。
仁清の指導者、茶匠・金森宗和
仁清の名前を不動のものとしたのは、日本陶磁史上で初めて華麗な色絵陶器を誕生させたことです。1682年(天和2年)頃に刊行された山城国の地誌『雍州府史(ようしゅうふし)』には、「野々村仁清の製造する御室焼は、狩野探幽、永真等に絵付けをさせたり、その狩野派風の装飾意匠をもつ製品が多い」と伝えています。この記述を裏付けるように、仁清の茶壺の色絵装飾には、狩野派の画風を感じさせる作品が多く見られます。MOA美術館蔵の「色絵藤花文茶壺」と石川県立美術館蔵の「色絵雉香炉」は、現在、国宝に指定されています。その他にも、東京国立博物館蔵の重要文化財「色絵月梅図茶壺」や「色絵芥子図茶壺」、丸亀藩京極家に伝世した「色絵吉野山図茶壺」(現・福岡市美術館蔵)などがあります。金森宗和(1584~1656)は江戸前期の茶匠ですが、飛騨高山3万余石領主・金森可重(よししげ)の長男として生まれました。母は郡上八幡領主・遠藤慶隆の娘です。1614年(慶長19年)に父より廃嫡を受け、母を伴い京に出て、大徳寺の紹印伝双に参禅し、宗和の号を得ます。茶匠として活動をはじめると、近衛信尋(のぶひろ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)、鳳林承章(ほうりんじょうしょう)ら洛中の数寄者や前田家、浅野家などの外様大名のほか、幕閣の要人とも繋がりを持ちます。近衛信尋の兄にあたる後水尾天皇から下賜された茶を宗和に取り次ぐ書状も残されており、後水尾天皇と信尋の勘返状(かんべんじょう)にも宗和が椿継ぎの職人を遣わしたことが記されています。1656年(明暦2年)の金森宗和の没後、仁清の作風と絵付意匠は一層洗練され、翌明暦3年の年銘をもつ「色絵輪宝羯磨文香炉」などは色絵技法が完成の域に達しています。1658~73年(万治・寛文年間)頃は、御室窯が最盛期を迎えた時期に当たり、王朝趣味の意匠や狩野派・琳派の画風を基調とした絵画的意匠の色絵茶壷、色絵水指、色絵香炉、色絵香合など、代表作が数多く生まれています。
仁清の色絵陶器と京都の諸窯
御室窯は仁和寺、粟田口窯は青蓮院、清水窯は清水寺の支配を受けて生産されます。仁清の出現によって東山山麓の諸窯を中心に行われていた京焼の生産が洛西地域にも拡大し、元禄年間には貝原益軒が「物のみやびらかなる事を京風という」(『諺草』)と賞賛した雅びな京風色絵意匠が確立します。仁清の色絵様式は、その後の京焼色絵の源流となります。初期京焼の主窯をなした粟田口焼では「寛文ノ頃ヨリ色画製起レリ 則チ錦窯焼画ナリ」(『粟田陶器沿革』)と記述され、仁清の影響を受けて色絵の手法がはじまりまったことを伝えています。また京都洛北の御深泥池(みぞろがいけ)の地域で焼造されている御菩薩池焼でも、すでに仁清が生存中にその影響を受けたと思われる色絵陶器が制作されており、『隔蓂記』には1663年(寛文3年)に色絵で縁取りされた天目茶碗が登場します。御菩薩池焼については、1678年(延宝6年)に京都を訪れた土佐国尾戸(おど)焼陶工・森田久右衛門の「森田久右衛門日記」の中で「みそ路池焼見物に参…みそ路池と申在所へ参尋申候へは 拾ヶ年以前に東加茂へ参三ヶ年ほとやき申候 今は京中立売西からす丸申所に居申候」と記されていますが、これより御菩薩池焼はほどなく窯場を東加茂に移し、さらに3年ほど活動した後、居地を上京の烏丸中立売に構えてやきものの「町売」をしていたことが知られています。1670年代後半から80年代にかけては、八坂焼においても製品が京土産物として売られ始めた時期であり、これまでの茶の湯数寄者を基盤に朝廷、公家、門跡寺院の庇護を得て贈答品などを制作する御用窯的性格を持って成立してきた京焼が、それらの手から離れて不特定多数を対象とする商売、すなわち「町売り」が本格的に開幕する時代となります。