やきもの曼荼羅[43]日本のやきもの25 高取焼(一)

高取焼とは

 高取焼とは、福岡県下で桃山時代から焼かれているやきもののことです。貝原益軒編の『筑前国続風土記』(1703年刊)には、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して黒田長政に連れてこられた朝鮮陶工の八山(のちに高取八蔵と改名)が、福岡藩主(黒田長政)の命により鞍手郡鷹取で開窯したことが伝えられています。黒田長政は、関ケ原の戦いの軍功によって1600年(慶長5年)12月、豊前中津から筑前に国替えとなっていますので、1601、2年頃には鷹取山の西麓にその窯跡を残す永満寺宅間窯で製陶を開始したと推察されています。

高取焼の古窯を年代順に挙げると、次のようになります。

  1. 永満寺宅間窯 福岡県直方市大字永満寺宅間釜床
  2. 千石窯 福岡県鞍手郡宮田町千石唐人谷
  3. 上畑窯 福岡県遠賀郡岡垣町上畑唐人谷
  4. 内ケ磯窯 福岡県直方市頓野内ケ磯窯窯ノ尾
  5. 山田窯 福岡県嘉穂郡山田町大字山田字木城
  6. 白旗山窯 福岡県飯塚市幸袋町白旗山
  7. 小石原鼓(つづみ)窯 福岡県朝倉郡小石原村鼓釜床
  8. 小石原鶴窯 同 鼓字鶴
  9. 大鋸谷(おおがだに)窯 福岡県早良郡田嶋村大鋸谷(現・福岡市中央区輝国付近)
  10. 小石原中野窯 福岡県朝倉郡小石原村中野
  11. 東皿山窯 福岡県早良(さわら)郡麁原(そはら)村(現・福岡市西新町)上の山
  12. 西皿山 同 麁原村(現・福岡市西新町)西皿山

永満寺宅間窯

永満寺宅間窯は、江戸初期の1601、2年頃に高取八蔵父子が豊前国鞍手郡鷹取山の西麓に開窯した窯のことです。その物原からは、茶碗や水指の破片も出土しますが、多くは皿・片口・壺・鉢・瓶・甕(かめ)・擂鉢(すりばち)などで、日常雑器を中心に焼かれていたことが分かります。因みに、茶碗の破片の出土はありますが、茶入の破片の出土はないとのことです。

遠州が絶賛した高取茶入・銘「横嶽(よこたけ)」

 『筑前国続風土記』には「鷹取焼茶入、正一(小堀遠州正一)名を称せらるゝもの、染川・横嶽・秋の夜など也。横嶽は酒井讃岐守忠勝へ、秋の夜は小笠原山城守長頼へ、忠之公より送られる。染川は国君にあり」と記されており、黒田家でも重要視された茶入の一つとして伝えられていたことが分かります。特に茶入・銘「横嶽」に付属していた忠之宛の遠州書状には、「送られてきた新作の茶入を上・中・下に分けておきましたが、この茶入は一段と見事な出来であり、染川・秋の夜もこれには劣るでしょう。茶入の名を色々と案じましたが、これといった名ではありませんが『横嶽』と名付け、付属の蓋と袋を各々二つ見繕わせました。お国(筑前)焼の茶入のうちに、これほどのものはもう出来ないでしょう。この茶入を使って(しかるべき機会に)茶の湯をなさっても申し訳ありません。前の二つ(染川・秋の夜)の茶入は、お割り捨てなさいますよう。云々」と記されており、「茶入が一国一城に価する」時代の価値観を伝えています。

文琳茶入 内ケ磯窯

文琳茶入 内ケ磯窯 高7.2センチ 口径2.9センチ 底径3.0センチ 福岡東洋陶磁美術館所蔵

 文琳というと、博多の豪商・神屋宗湛が福岡藩主・黒田忠之に召し上げられた茶入・銘「博多文琳」(福岡市美術館所蔵)のことが思い出されますが、写真の「文琳茶入」は胴の曲線がふっくらと丸く、腰のあたりがわずかにつぼまった、いわゆる文琳形の茶入です。「玉の枝」という銘が付けられていますが、竹取物語の「蓬莱の玉の枝」にちなんだ銘でしょうか。釉薬の模様がとても綺麗な茶入です。内ケ磯窯から陶片が出土しています。

内ケ磯窯

 内ケ磯窯は、江戸初期1614年(慶長19年)に鷹取山の北側で本格的に製陶作りを展開した窯で、主に藁灰釉、飴釉などの茶陶をはじめ生活雑器など種々の製品を生産しています。発掘報告書によれば「擂鉢や片口の素焼を中心としたものと、小皿・向付・茶碗・窯道具類が一群となって、それぞれひとかたまりで検出された」とあります。また、「珍しい銅釉で、いわゆる上野(あがの)釉に類似する緑青が検出された」とも報告されています。永満寺宅間窯・内ケ磯窯の作品を指して「古高取」と呼ばれています。これまで、内ケ磯窯で焼かれた朝鮮唐津や斑唐津の茶碗、水指などは、茶道具の世界では唐津焼として伝世していました(一つには、その方が茶人に喜ばれ、高く売れたからでしょう)。そのため「古高取」の茶陶として認知されることは少なく、「遠州高取」ばかりが高取焼として知られていました。「内ケ磯窯は織部好みの茶陶、白旗山窯は遠州好みの茶陶」と大ざっぱに分ける人もいますが、事実はそう単純ではないようです。内ケ磯窯からも遠州の影響と見られる高取茶入の先鞭をなすタイプのものが出土しているからです。また、2代藩主・黒田忠之は、博多の豪商・神屋宗湛(そうたん 1553~1635)らを通じて、彼らの茶友であった唐津藩寺澤志摩守の元家臣・五十嵐次左衛門と知り会い、茶陶生産の指導者として筑前藩に招きました。この五十嵐次左衛門によって、唐津で始まった半地下式の階段状連房の登り窯が内ケ磯窯に導入されました。内ケ磯窯で焼かれた朝鮮唐津や斑唐津は五十嵐派の手によって生産されたもので、さらに、この陶工集団は瀬戸の陶法に長じていたとも言われています。五十嵐次左衛門の内ケ磯窯への参加は、現在の研究では、1937、8年(元和6、7年)あたりではないかと推定されています。

三耳花入 内ケ磯窯

三耳花入 内ケ磯窯 高26.6センチ 胴径15.1センチ 福岡東洋陶磁美術館所蔵

 写真の「三耳花入」は、袋形の胴部にラッパの形をした口部を付け、三方に輪耳を貼り付けた珍しい形の花入です。胴に三段ほど沈線を巡らして、各面に文字のような文様を箆で描いています。これらは、南蛮貿易の影響による意匠の反映と推察されています。成形は、板起こし紐積み叩き成形で、仕上げに轆轤(ろくろ)を使用しています。内部には叩きの際に生まれる青海波(せいかいは)が見られます。