やきもの曼荼羅[57]日本のやきもの39 萩焼(三)

萩赤楽茶碗

萩赤楽茶碗 三輪勘七 江戸時代中期 高7.3センチ 口径10.5センチ 底径4.8センチ 山口県立萩美術館・浦上記念館 所蔵

 赤楽に白釉を刷毛で施した茶碗で、胴には横や縦、斜めに引っ搔いたような線があり、まるで一枚の抽象画を見るようです。見込みは大胆に削られた跡が見え、高台横には輪を3つ繋いだ三輪家の印が押されています。箱蓋裏には「赤楽茶碗 五代勘七作」とあります。

三輪窯、佐伯窯について

 三輪窯は、1766年(明和3年)に五代の孫三輪十蔵利近が記した『畧系伝書御書渡写』によれば、先祖は文禄・慶長の役で毛利一門の宍戸元続によって招致され、石見国で陶業を営んでいましたが、その子赤穴内蔵助が毛利輝元の萩移封に際して石州から萩に来て、前畑小丸山(長添山)の麓に開窯したとあります。その息子が三輪忠兵衛利定で「休雪」と称しました。「初代三輪休雪」は、その忠兵衛利定から始まります。1663年(寛文3年)三輪忠兵衛利定の俸禄が「御恩米廿四俵御切米五石、銀九拾目」で、また無田ケ原に開窯していた初代佐伯半六(実清)の俸禄が「三人扶持米三石」で「御雇細工人」として召し抱えられ、松本御用窯を復活させます。その後、佐伯半六が死歿し、後嗣の義勝(二代)が幼少であったため、初代三輪休雪が藩命によって佐伯の窯を踏襲し、現在に及んでいます。三輪家においては、「大和国三輪の里より来往した」と言い伝えられているようで、大変興味深く思います。初代休雪は、1700年(元禄13年)に藩命によって京に上がり、楽焼を修得して帰ります。以後、三輪家では、楽焼が御家芸となりますが、この楽焼が、李朝風や織部風の影響を受けた初期萩焼の世界に新風を吹き込みました。さらに四代三輪休雪も、同じく藩命により京の楽家に修行に行きます。注目すべきは、朝鮮王朝系の技術の中には置物制作が見当たらないことです。楽焼では早くから置物や香炉などの作例が残されています。萩焼に置物を導入したのは、楽家に修行に行った三輪家ではないかといわれています。この置物作品には、動物系と人物系の二通りがあります。動物系の中心は『萩子連獅子置物』のような獅子や狸で、人物系は中国道教の仙人や鍾馗(しょうき)、武将などです。

 一方、三代佐伯彦右衛門が1741年(寛保元年)に録上した『畧系並伝書』によれば、佐伯家は先祖以来築城術をもって仕えた譜代の家臣であり、佐伯窯の初代半六は次男でしたが、陶技に秀でていたために召し抱えられたといわれています。祖父佐伯和泉守元信が文禄・慶長の役に従軍して蔚山(うるさん)の築城に功をたて、帰陣に際して朝鮮の女性を妻として連れ帰っていわれていますので、なにかそのあたりに因縁の深さを感じます。二代義勝は成人して半六を襲名し、一時中ノ倉の坂窯を借りて御用を整えますが、三代半六の時に大釜の地に築窯します。

萩子連獅子置物

萩子連獅子置物 六代三輪喜楽 江戸時代後期 高21.5センチ 幅27.0センチ 奥行16.0センチ 個人蔵

 耳、口、足などの造りから六代三輪喜楽作と推定される獅子の置物作品です。転がって遊ぶ子をともなった獅子の姿を表現したもので、その力強い造形からは熟達した技術が感じられます。

出雲・楽山焼について

 楽山焼とは、松江藩二代藩主松平綱隆の別荘が営まれた場所(島根県松江市西川津町市成)で焼かれたやきもののことで、当時は御立山(おたてやま)の名で呼ばれていました。藩主綱広の懇望によって、萩藩主毛利綱広が1677年(延宝5年)に派遣した倉崎権兵衛によって興された出雲松江藩の御用窯のことです。この倉崎権兵衛は、長門深川(ふかわ)村の三之瀬(そうのせ)焼物所を開窯した蔵崎五郎左衛門の子か、同族の勘兵衛か、その子のいずれかといわれており、松江出向に際しては、ほかに2人の陶工が随行していたと伝えられています。その一人が深川窯の赤川助右衛門の家人で、もう一人が楽山焼の二代目を継いだ加田半六で、この人は無田ケ原に開窯した佐伯半六の一族の者と推測されています。さらに楽山焼窯元の長岡空権家に伝世する『倉崎権兵衛妻子の勘過状』によれば、1677年(延宝5年)に権兵衛がまず弟子を連れて松江へ入国し、2年後の1679年(延宝7年)に妻子下人ら8人を呼び寄せたことが知られています。しかも、萩藩は陶工のみならず、萩焼の原土、陶石までも送っており、権兵衛派遣の6年後の1683年(天和3年)には、小畑土20俵、射馬ケ台の刷毛目土5俵、浮野石薬5俵の3種類、合計30俵を調達して船で送り届けています。

 倉崎権兵衛は、高麗茶碗の伊羅保(いらぼ)・斗々屋(ととや)・三島写しに秀でており、特に「伊羅保の権兵衛」の異名で知られています。楽山焼二代の加田半六は名工として名を残しました。しかし、三代・四代半六とも凡庸で、四代半六の代に御用窯焼物師を免職となり、楽山焼は一時途絶えましたが、六代藩主松平宗衍(むねのぶ)の代の1756年(宝暦6年)に松江横浜町の土器(かわらけ)屋善右ヱ門の子土屋善四郎芳方が登用されて楽山焼に従事し、25年間にわたって焼物御用を務めます。1780年(安永9年)に松平不昧の命で不志名(ふしな)に移り、焼物御用を務めますが、1801年(享和元年)宇賀焼に従事していた長岡住右衛門が不昧に登用されて楽山焼五代を襲名します。この五代は楽山焼中興の祖と言われ、不昧公の影響により刷毛目(はけめ)茶碗・御本(ごほん)写し茶碗・水指などに優品を残しました。長岡家二代空斎は、一時楽山焼に従事した土屋芳方の跡を継いだ布志名焼土屋二代善四郎政方の次男で、藩命により長岡家の養子となります。1821年(文政4年)に陶技研究のため長崎に派遣され、上絵付を学ぶため京都で修業したとも伝えられています。その後、三代空入、四代庄之助、五代天味、六代空處を経て、七代空権に至ります。