やきもの曼荼羅[56]日本のやきもの38 萩焼(二)

萩立鶴茶碗

萩立鶴茶碗 江戸時代前期-中期 高9.3センチ 口径10.3センチ 底径5.1センチ 個人蔵

 この立鶴茶碗は、口辺部の造形は高麗茶碗の御所丸を写し、立鶴と御所丸の融合といった雰囲気の作品です。鉄分が多く赤味掛かっていますが、発色した胴に立鶴が象嵌で施され、17世紀後半の作といわれます。

深川萩の開窯

初代坂高麗左衛門(弟・李敬 りけい)に育てられた兄・李勺光(りしゃこう)の遺児が藩主から「山村」姓を授けられ、名を「作之允」とし、扶持を受けて「山村新兵衛光政」を名乗ります。しかし、1641年(寛永18年)に囲碁の争いで藩士の渡邊四郎右衛門を故殺する事件を引き起こします。藩は身分を配慮して「おかまいなし」という寛大な処置をとり、新兵衛は僧侶の姿となり、「松庵」と号して、李勺光の弟子の山崎平左衛門、蔵崎五郎左衛門が付人となり、古萩(一説には浜崎とも)へ転居します。しかし、1658年(明暦4年)2月、法華寺門前において渡邊四郎右衛門の遺児・吉之允と四郎右衛門の弟・宗庵によって仇を討たれます。これを機に山村家は、地位を失墜しやがて坂家に踏襲されます。その後、李勺光死没の地である山口県大津郡深川村三之瀬(ふかわむらそうのせ)の地を希望し、薪山として同地の名刹大寧寺の山林の伐採を許可されて移住し、築窯に着手します。また1657年(明暦3年)には、松庵の子の山村平四郎光俊が「扶持方五人銀子弐百五拾目」を支給され、三之瀬焼物所惣都合〆(しまり)を命ぜられて移住します。蔵崎五郎左衛門、同勘兵衛、赤川助左衛門、同助右衛門、そして地下(じげ)住人・九郎右衛門(のちの坂倉家の先祖)の5人の弟子を率いて、「弟子中他国へ出向しない」旨の請書を提出して、三之瀬焼物所(深川焼)を開窯します。のちに山村平四郎光俊は弟子の九郎左衛門を養子とし、「山村孫兵衛光信」と名乗らせて後を継がせますが、光信の子の源次郎光長が、1754年(宝暦4年)春日神社の祭礼の時、城内の宍戸家の家来と喧嘩になり、抜刀した罪で家禄を没収され、山村家は断絶したと伝えられています。その後、1786年(天明6年)に新屋坂倉万助が御蔵元支配人となり、深川には蔵元支配下の焼物師が、新屋坂倉、坂倉(本家)、坂倉(上隠居)、坂田、倉崎、赤川、田原、新庄、河村、木原、山下の12軒があったといわれています。いまでも深川では、坂倉新兵衛、坂田慶造、田原陶兵衛、新庄貞嗣といった作家が活躍しています。

萩蓮葉形大鉢

萩蓮葉形大鉢 江戸時代後期 高14.3センチ 口径33.0センチ 底径12.0センチ 個人蔵

 大きな蓮の葉の形をした鉢で、全体に藁灰釉が掛けられており、大きな蓮の葉と把手の蓮の茎の造形がよくマッチしています。比較的大型の器に藁灰釉を掛けるのは、深川焼によく見られる手法だそうです。江戸後期の作品といわれています。

萩焼の土と特徴

 萩焼は、大道(だいどう)土を主体とした土で成形され、絵付けなどの装飾性がほとんどなく、透明釉の土灰釉か白萩釉と呼ばれる白濁する藁灰釉が施されています。耐火度の高い大道土を用いて、比較的低い焼成温度で火を止めるため、素地に水分が浸み込みやすく、使用しているうちに素地の色が変化することから「萩の七化け」とも呼ばれています。粗砂を多く混入したものを鬼萩または鬼萩手、極めて細かい土だけを使用したものを姫萩または姫萩手と呼びます。萩焼の基本的な原土としては、大道土、見島(みしま)土、金峰山(みたけ)土のほか、窯元のある地土をそれぞれ使用します。

 これら主な土については、図録『萩焼四百年-伝統と革新』(2001年 東京・京都・福岡・山口を巡回)で説明されている内容を紹介します。大道土とは防府市台道、山口市鋳銭司(すぜんじ)付近から採取した砂れきの多い白色粘土で、萩焼の原土の主流として使用されています。見島土とは、萩市の沖合の見島に産出する鉄分の多い赤土で、軽くて粘りがなく、大道土とともに欠くことのできない土です。金峰山土は、阿武郡福栄村福川金峰の白土で、粘り気のまったくないカオリンの一種です。通常は大道土に金峰山土を10~20パーセント混入して耐火度を高めます。小畑(おばた)土は、萩市小畑の鉄分の多い赤土で、古く紅萩手と称する茶碗に使用します。坂家ノ土は、萩市中の倉の坂窯の上の山から出る赤色系の土です。小畑ハケは、萩市小畑産出の小畑長石の風化土です。御所原(ごしょばら)土は、長門市御所原産出の黄色砂まじりの荒土で、河原土と混ぜて使いますが、藁灰白釉をかけるとよく合う土です。河原土は、長門市河原産出の粘土です。仁保(にほ)土は、山口県仁保産出の仁保真砂(まさ)と称する赤真砂と白真砂とがあります。大山路(おおやまじ)土は、山口市宮野大山路産出の青白色真砂です。

古萩とは

 古萩とは、江戸時代に作られた萩焼を総称して使われます。初期の松本御用窯では李朝祭器に似た作品が作られていますが、ほどなく高麗茶碗の中でも織部好みの作風が導入されます。この織部好みの作風は16世紀末から17世紀初期の第2期に分類される高麗茶碗の作風をいい、割高台(わりこうだい)、御所丸(ごしょまる)、彫三島(ほりみしま)、伊羅保(いらぼ)などが挙げられます。本歌は高台内を削らず十文字に割ったものが主であるのに対して、萩焼は高台を削ったものが多いようです。また、萩焼では筆洗形の割高台が比較的早い時期から見られます。御所丸茶碗は、本歌同様、口辺の厚いものが多く、また桜高台のものも多くあります。第2期では高麗茶碗のほとんどのタイプが写されていますが、彫三島の檜垣文に割高台を持ったものもあり、この二つのタイプが一つの茶碗に融合されたものが作られています(山口県立美術館蔵 萩檜垣文筆洗形割高台茶碗参照)。

江戸時代前期の萩焼の中で特種な器の一群があります。それは割俵形の鉢です。まず轆轤で円筒状に土を引き上げ、その口をふさいで米俵形に作ります。これを縦に半分に割って横にして底に高台を付けたものです。萩花文割俵形鉢(山口県立美術館蔵)や「萩十字文割俵形鉢」(個人蔵)がありますが、後者の胴には十字文があります。江戸後期には、より装飾性の強い大形の壺や鉢、置物などの細工物が作られます。

 萩茶碗の形態には、碗形(わんなり)、平茶碗、天目形・筒茶碗、半筒茶碗、馬だらい、杉形(すぎなり)、唐人笛、四方、鉄鉢(てっぱち)、沓形(くつがた)、呉器、桃形(ももなり)、筆洗(ひっせん)、俵形、馬上杯などがあります。

萩唐人笛形茶碗

萩唐人笛形茶碗 江戸時代後期 高10.8センチ 口径11.1センチ 底径5.8センチ 個人蔵

 江戸時代後期に流行したと言われる唐人笛形の茶碗です。唐人笛とは、中国製の木管楽器のことで、いわゆるチャルメラを指します。外にひらいた口、しめられた胴、ややふくれた腰などが、一般的な形です。