やきもの曼荼羅[47]日本のやきもの29 薩摩焼(一)

薩摩焼とは

 薩摩焼とは、鹿児島県で桃山時代から焼かれているやきもののことです。その開窯は、文禄・慶長の役(1592~98)の後、藩主・島津義弘によって朝鮮半島から渡来した陶工たちによって始まります。1598年(慶長3年)に鹿児島市の前之浜に20数人、東市来町神之川に約10人、串木野市島平に43人、加世田市小湊に数名と、男女80人ほどの陶工と家族が入国しました。その年代については、「星山家系譜」には「文禄4年」(1595年)とありますが、朝鮮陶工の最古の記録「留帳(とめちょう)」には「慶長3年」とあるようです。

 さて、薩摩焼というと、一般的には色絵金彩の華やかなやきもののイメージがあるかもしれませんが、それは明治時代に数多く海外に輸出された「SATSUMA」が里帰りし再評価されているからで、その多くは幕末から明治に掛けて京阪や横浜などで大量に作られたものも含まれています。1867年(慶応3年)に薩摩藩が単独で、陶工・朴正官(ぼくせいかん)が制作した「金襴手花瓶」をパリ万国博覧会に出品し、さらに1873年(明治6年)にウィーン万国博覧会で12代沈壽官(ちんじゅかん)の作品が評判になり、世界の注目を集めました。そうした歴史を理解した上で、薩摩焼を見てほしいと思います。

薩摩焼の窯の系統

 薩摩焼の窯の系統を大別すると、竪野(たての)系の窯(藩窯)、苗代川(なわしろがわ)系の窯(民窯)、元立院(げんりゅういん)系の窯(民窯)、龍門司(りゅうもんじ)系の窯(民窯)の陶器を主体とする4系統と、磁器である平佐(ひらさ)系の窯(民窯)とに分かれます。その古窯跡は50余カ所あるといいますが、それらを総称して薩摩焼と呼んでいます。

黒釉肩衝茶入

黒釉肩衝茶入 竪野窯系 江戸時代 17世紀 高8.8センチ 口径2.3センチ 底径3.2センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵

 この「黒釉肩衝茶入」は、江戸時代初期の桃山形式を色濃く留めており、複雑な胴の作りは寛永年間の作を忍ばせているといいます。竪野窯系の窯では、こうした黒釉茶入が盛んに作られました。仕覆(しふく、茶道具を入れる袋)は、茶地唐花緞子・納戸地青海波飛金襴です。

竪野系の窯

 竪野系の窯は、1601年(慶長6年)藩主・島津義弘の命によって、陶工・金海(きんかい、和名・星山仲次)は姶良(あいち)郡姶良町帖佐(ちょうさ)に「宇都(うと)窯」を開窯します。金海は藩主の命を受けて、1602年(慶長7年)尾張瀬戸へ赴き5年間滞在して陶技を学び帰国、茶入や茶碗などの茶陶を焼成します。これが薩摩焼の基をなす窯で、以後、金海の家系が竪野窯系の主導者となります。1606年(慶長11年)に義弘が加治木町に居城を移すと、それに伴い金海も1608年(慶長13年)に同町に「御里(おさと)窯」を開き、本格的な茶陶生産に着手します。慶長から寛文年間に掛けては「御里窯」の作品が大半を占めますが、その特徴はねっとりとしてきめが細かく鉄分の多い黒色粘土を用い、黒釉と藁灰釉を掛けた作風で、黒釉茶入を中心に茶碗・水指・花入や懐石道具が作られました。いわゆる「古薩摩」と呼ばれるものです。1619年(元和5年)7月、義弘の死去の後、一周忌に藩主・島津家久が現在の鹿児島市に居城を移すと、金海らを鹿児島に呼び寄せ、同市冷水(ひやみず)町に「竪野冷水窯」を開窯し、藩主専用のお庭焼を焼かせますが、金海は1621年(元和7年)12月、52歳で死去したため、竪野での仕事は至って短く、その子の二代・星山仲次(金和)が中心であったと思われます。金海の後を継いだ金和は、弟の金林(休右衛門)を伴って有田に赴き陶法を学んで帰ります。金和は1682年(天和2年)82歳で死去し、その後を嫡子・金豊が継ぎ、3代目の星山仲次となります。金和の弟・金林の二男・金貞(和名、星山嘉入)は、名工として後世までその名が知られています。「竪野冷水窯」のほかには、金海2代の金豊3男・金当(和名、星野弥兵衛)の窯である「竪野長田(ながた)窯」、1842年(天保13年)に竪野分窯として築窯された「稲荷窯」が知られています。これとは別に、1638年(寛永15年)家久の没後に、藩主・光久は金海と同時に渡来した申武信(和名、田原万助)の嫡男・有村久兵衛に碗右衛門の名を与え、1648年(慶安元年)京都へ修行に行かせて御室窯で学ばせました。この碗右衛門によって、本格的な錦手が始まったといわれています。

黒釉双耳水指

黒釉双耳水指 竪野窯系 桃山~江戸時代 17世紀前半 高18.5センチ 口径19.5センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵

 薩摩焼の水指は遺品が極めて少ないといわれています。この「黒釉双耳水指」は、現在知られる限り、その代表的な作品の一つです。粘土が粘っこい褐色を帯び、黒釉がしっとりと覆い全体が端正な姿にまとまっている点から、桃山時代か、少し過ぎた江戸時代初期の作と推定されます。