やきもの曼荼羅[44]日本のやきもの26 高取焼(二)

五十嵐次左衛門

 貝原益軒編の『筑前国続風土記』(1703年刊)によると、内ケ磯窯には、高取八蔵のほかに五十嵐次左衛門という人物が茶陶の生産に関わっていたことが記されています。近年発見された『西新高取家本「高取歴代記録」』には、「五十嵐の姓はもと肥前唐津藩寺澤志摩守の家臣で、先祖次左衛門は茶事を好み、陶器の釉薬を自ら工夫し、腕の立つ陶工たちを集めて楽しみとし、お国(筑前藩)の茶友、博多の泉・神屋などという茶人に工夫して焼いた磁器を送っていた。この頃、忠之公は良い茶器を持っているならば差し出すようにというお触れがあり、数々の茶器が差し出されるなか、泉・神屋家から出された次左衛門の茶器があって、忠之公のはなはだ珍美するところとなり、黒田清太夫に命じ泉・神屋を通じて次左衛門を召し抱えるよう働き掛けをおこなった。次左衛門は志摩守殿の牢人であったので、焼物師の名目では、家柄の面からしても召し抱えの要請に応えることはできない、などとあれこれ遣り取りがあり、焼物師の名目ではなく召し抱えるとの運びとなり、招きに応じて筑前に来り、30人扶持を与えられ、直礼(お目見えの資格)を仰せつかった。次左衛門自身はただ釉薬製法を専らにするだけで、轆轤(ろくろ)細工や焼成などの仕事は行わず、それを行う細工工人を配下として抱えていた。この細工人たちにも次左衛門とは別に扶持が与えられたとのことである」という内容のことが記されています。

白濁釉水指

白濁釉水指 内ケ磯窯 高12.0センチ 福岡東洋陶磁美術館所蔵

 写真の「白濁水指」は、塩を入れる容器である塩笥壺(しおげつぼ)形の水指で、このタイプと同じものが出光美術館にも所蔵されています。以前は唐津焼として流通していましたが、内ケ磯窯の調査により高取焼と分かりました。上記にある、五十嵐次左衛門とともに抱えられた細工工人たちが、唐津焼の陶工なのかどうか、気になるところです。もし、唐津焼の陶工なら、高取焼に唐津焼と同種のものがあるのも納得のいくところです。今後の高取焼の研究に期待したい課題の一つです。

山田窯

 1623年(元和9年)高取八蔵父子は京に赴き、小堀遠州の指導を受けたと伝えられています。しかし、この年に藩主・黒田長政が没し、八蔵らは朝鮮への帰国を願い出て藩主・黒田忠之の怒りに触れ、嘉穂郡山田村(現・山田市上山田)に蟄居(ちっきょ)となります。近年の研究では、小堀遠州の指導が内ケ磯窯に及ぶようになったのは1624年から39年(寛永年間)ということなので、その大半は八蔵父子の蟄居中に作られたことになります。これによって、八蔵父子は身の回りの生活雑器を焼くだけのごく小規模な窯を開き、碗・皿・鉢・壺などの日用品のみを焼いたことが分かっています。

白旗山窯

 『高取歴代記録』には、八蔵は1630年(寛永7年)に許されて8人扶持8石をもらい、穂波郡合屋川内(おおやかわち)・中村・白旗山の高宮権現(撃鼓神社)の馬場脇に作られた御焼物所で茶器などの製作をしたとあります。これを白旗山窯と呼びます。また『筑前国続風土記』には、忠之の命により伏見の小堀遠州のもとに赴いて指導を受け、遠州好みを反映した茶入・茶碗・水指などを焼いたと記されています。いわゆる「遠州高取」のことです。綺麗寂びといわれる遠州好みの洗練された、軽妙で瀟洒な作風を特色とする茶器類を焼成しました。釉は鉄釉・黄海鼠・藁灰釉・飴釉を用い、重ね掛け・杓掛け・掛け分けなどの施釉法により多様な釉調が見られます。

小石原鼓窯

 1665年(寛文5年)上座郡鼓村釜床(現・朝倉郡小石原村鼓釜床)に窯を移します。『高取歴代記録』によると、高取2代目の八蔵貞明(次男・新九郎)の兄にあたる八郎右衛門(病気がちで初代八蔵の長男)には4人の息子、長男八郎、次男八之丞、三男善七、四男秀悦と、ほかに女子もあったと記されています。また、長男八郎は貞明の養子で後に3代目を継ぎ、次男八之丞は中村(小石原)で禄をもらい藩窯の仕事に従事し、貞享年間(1684~88)以後、小石原村に住み、この人が高取八之丞の元祖となった、とあります。この小石原鼓窯では、主に鉄釉・灰釉などを用いた茶陶を焼成しています。

片身替釉向付

片身替釉向付 5枚 内ケ磯窯 高4.4センチ 径18.2センチ 福岡東洋陶磁美術館所蔵

 写真の片身替釉向付は、結び文の意匠の器に藁(わら)灰釉と飴釉を片身替わりに掛け分けたものです。タタラによる型作りで、底には布目が付いています。内ケ磯窯の作品。2005年(平成17年)に開催された「高取焼」展(根津美術館、福岡市美術館)の図録には、「五十嵐派は唐津藩にいて製陶にたずさわっていたと記録には伝えるが、唐津焼には片身替りの施釉法は作例がなく、無論朝鮮にもこの技法はない。またこの時期のタタラの型造りの唐津焼も管見にして知らない。五十嵐派によって高取に持ち込まれた技法とすると、制作年代は元禄年間の中期以降となる」とあります。朝鮮唐津の片身替りは、確かに、唐津にはありません。この技法は、陶工が考案した技法というより、五十嵐次左衛門のような人物が考案したと考える方が素直な気がします。

大鋸谷窯

 1688年から1704年(元禄年間)に早良郡田嶋村大鋸谷(現・福岡県中央区輝国付近)へ御陶所(大鋸谷窯)を移します。高取八蔵貞明が五十嵐次左衛・稲富喜左衛門と共に参加します。褐釉の交合や置物などを焼成しますが、1704年(元禄17年)閉窯します。