やきもの曼荼羅[40]日本のやきもの22 鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿

鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿 鍋島焼 江戸時代(17世紀末から18世紀初) 口径30.5センチ 戸栗美術館所蔵

 鍋島焼の尺皿は、直径約30センチの大皿で、色絵・染付・青磁に関わらず、いずれも堂々とした存在感を放っています。武家の饗応において、尺皿はその主役を担う重要なうつわでした。そのため華やかな絵柄が選ばれ、裏文様や高台文様に至るまで、最新の注意を払いながら丁寧に描かれています。前回の連載でも触れましたが、将軍家への献上品でしたから、「鉢」にあたる尺皿は例年2枚ずつ献上されていました。

ヨーロッパで発見された鍋島色絵尺皿

 今回、紹介するのは17本の櫂(かい)が描かれた「鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿」(戸栗美術館所蔵)の尺皿です。この作品は、長くヨーロッパに伝わり、日本ではその存在すら知られていなかったものです。鍋島焼の色絵尺皿は20数点しか現存していないので、この尺皿は新資料として大変貴重なものです。それは、これまで知られていなかった新発見の図柄というだけでなく、図柄の内容そのものが珍しく、これまでにない強いメッセージを感じるからです。

 鍋島焼は、有田磁器の影響の他に、中国磁器や各種の工芸図案など多方面からの意匠の導入や影響を受けながら、その様式を完成していきます。鍋島焼は将軍家への献上品として生産されましたから、形と文様を正確に揃えることが求められました。技術が進むにつれ木盃形(もくはいがた)の規格が整い、文様も同じ形、同じ大きさで描かれるようになります。鍋島焼の文様は、「仲立ち紙」を用いて同じ文様を描いたと考えられています。「仲立ち紙」とは、薄い和紙にヒョウタンなどを焼いて作った墨で文様を描き、これを素地に当てて紙の裏面から擦り、下書きになる線描きを写す技法のことです。

 鍋島焼は将軍家への献上品ですから、四季の季節感を盛り込んだ図案が多く見られますが、毎年同じ図柄では飽きられてしまうので、時には斬新なモチーフが鍋島藩庁側から提案される場合もあったようです。また、将軍の趣味が変われば鍋島焼の図柄も変わるということが、5代将軍綱吉や10代将軍家治の時代にはあったようです。家治の時には、将軍から12通りの図柄の指示がありました。

 近年では、鍋島焼は「図案帳」という下絵図に基づいて制作されていたことが明らかになりました。この「下絵図」は単なる見本帳ではなく、それ以上の重要な役割を担っており、長期に渡って安定した献上品、贈答を続けるための製品図面であったともいわれています。

「鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿」の図柄とその周辺

 改めて「鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿」を眺めて見ますと、見込みには墨はじきによる帯状の青海波文が描かれています。この3つの帯状の青海波は、根津美術館蔵の「青磁染付丸繋青海波文皿」とよく似ていますが、本作品の方が丁寧に描かれているように思います。また、17本の櫂の色は緑と紫と黄の3色で彩色され、それを束ねる紐は赤で描かれています。この配色は佐賀県立九州陶磁文化館蔵の「色絵三瓢文皿」と共通するものがあります。共に鍋島盛期、元禄時代の作品で、本作品も元禄時代の作品と思われます。

 鍋島の文様は、植物文・器物文・幾何学文・更紗文・有職文・動物文・風景文・気象文・人物文など多岐に渡っています。文様は、植物文がもっとも多く、唐草文もよく用いられています。鍋島焼の文様は基本的にはハレの図柄で、めでたい文様が描かれています。しかし、17本の櫂繋ぎの図柄は、これまで図柄とはまったく違っています。この「鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿」の17本の櫂にはどんなメッセージが込められているのでしょうか。

 櫂というのは舟を漕ぐ道具で、英語でいえばオールのことです。日本の和舟で用いられる櫂は、柄の末端部分に櫂杆(かいずく)や撞木(しゅもく)と呼ばれるT字形の横棒が付いています。この和船の櫂は、水をかいて舟を操るだけでなく、艪(ろ)のように水中で左右に 翼面を振ることで揚力を得て進む操作も行えるようになっています。櫂を図柄としたものが家紋にありますが、これは海事にゆかりのある紋とのことで、有名な使用家としては、清和源氏義光流の山本家が挙げられています。櫂を図柄に用いたやきものとしては、日本の茶人が中国明時代の景徳鎮に注文した「古染付櫂文六角水指」に櫂を描いた図柄があります。しかし、ここでは人心を束ねるという意味として捉えた方がいいかも知れません。
鍋島焼は将軍家に献上するやきものですが、鍋島藩内でも使用されました。進むべき進路を操る櫂を束ねるということは、お家の安泰を意味します。たとえ将軍家でなく、鍋島藩であっても事情は同じことです。私は、本作品をそうしたメッセージ性のある図柄ではないかと推察しています。

深堀義士の討ち入りと赤穂浪士の討ち入り

 さて、「鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿」が制作された元禄時代というのは、5代将軍綱吉が治めた約30年間(1680~1709年)をいいます。幕府政治の安定期にあたり、貨幣経済がめざましく発展し、都市生活が向上し、上方を中心とした元禄文化が栄えます。近松門左衛門や井原西鶴といった人々の活躍がそれにあたります。また、松尾芭蕉が奥の細道の旅に旅立ったのも1689年(元禄2年)3月のことです。なかでも、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、もっとも著名な事件としていまも語り継がれています。松の廊下で刃傷に及んだ浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は除封となります。

元禄年間の出来事を年表で調べていくと、偶然、綱吉時代に行われた外様大名17名の改易を見つけました。その改易された外様大名17の中には、赤穂藩も含まれています。同じ外様である鍋島家にとっては、他人事ではなかったと思います。

 佐賀鍋島藩には、赤穂藩との大変興味深い逸話が残っています。赤穂浪士の寺坂吉衛門が五島流刑中の深堀武士を密かに訪ね、討ち入りの参考にしたというのです。長崎喧嘩騒動と深堀義士とは、1700年(元禄13年)12月19日、佐賀鍋島藩深堀領の武士深堀三右衛門、柴原武右衛門が五島町の深堀屋敷へ帰路の途中、町年寄り高木彦右衛門の一行と行き違いますが、この日は生憎の大雪で路地が悪く、三右衛門が石段につまづいてはねた土が高木の仲間にかかりました。両名は不調法を詫びてその場は収まりましたが、高木方の20数名が深堀屋敷に押しかけて、土足で乱暴をはたらき両名の刀大小を奪い去りました。武士としてひどい恥辱を受けた両名は切死ぬほかなく、差し違えの大小(2本の刀)を取り寄せるため在所に使いを出しました。深堀からはこの難を見捨てるのは男の道ならずと助太刀がはせ参じ、翌20日早朝に西浜町の高木屋敷に討ち入りし、彦右衛門以下6人を討ち果たしました。深堀三右衛門は同屋敷で、武右衛門は大橋上でそれぞれ割腹したそうです。幕府の裁定は鍋島家死罪10人、五島遠島9人、高木方は下人の死罪8人、彦右衛門倅、長崎四里方追放であったそうです。「武士道とは死ぬ事と見付けたり」の「葉隠」の教条をためらいなく決行したのが、世にいう深堀義士伝であります。

「十七櫂繋ぎ文」に隠されたメッセージ

 赤穂浪士の47士の吉良邸討ち入りは、1702年(元禄15年)12月14日ですから、鍋島藩の深堀義士の討ち入りから2年後の出来事です。「鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿」の17の櫂が、綱吉時代に改易された17の外様大名を暗示しているという証拠はなにもありませんが、その17の中に赤穂藩があったというのも何かの縁のように思います。元禄時代の鍋島藩を象徴する出来事として深堀義士の討ち入りがあり、江戸では赤穂浪士の吉良邸討ち入りがありました。この2つの出来事は、どこか繋がっているようにも思います。「鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿」の図柄は、櫂を刀に置き換えてみれば、まさに武士の魂を束ねているとも見えます。ちなみに、宮本武蔵は佐々木小次郎と巌流島で決闘する折、舟の櫂を削って木刀で戦っています。この「十七櫂繋ぎ」の図柄には、そうした人心を束ねるという鍋島藩のメッセージが暗示されているようにも思いますが、これは私の妄想に過ぎません。

ハレのうつわとしての尺皿

 本作はフランスのパリで発見されたもので、その来歴は残念ながら不明ですが、ヨーロッパに輸出された有田陶磁器にはない図柄です。恐らく明治以降にヨーロッパに渡ったものと思われます。本作には微小な使用痕が器体内側面にあり、この使用痕跡は本作がハレの器として宴席での実用にも供されていたことを物語っています。また、本作が国内と海外において幾世紀にもわたり完璧に良好な状態で伝世されたことの事実は、本作が人々に大切に伝承されたことの証左でもあります。「鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿」の図柄の謎がいつか解き明かされることを願って止みません。渋谷区松濤の戸栗美術館で「鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿」が展示される時には、ぜひ出掛けてみてください。

鍋島色絵十七櫂繋ぎ文皿の裏面