やきもの曼荼羅[39]日本のやきもの21 鍋島

色絵龍田川文皿 鍋島 江戸時代中期・18世紀初期 径20.2センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵

将軍家への献上品としての鍋島藩窯

 鍋島焼とは、将軍家への献上品として焼かれた磁器、すなわち肥前鍋島藩の藩窯の製品をいいます。それ以前の鍋島藩は、例年、中国から景徳鎮磁器を輸入して将軍家に献上していました。その中国磁器が、明王朝から清王朝に替わるに当たって起きた内乱によって、海外輸出が激減したことが、鍋島焼が焼かれた大きな理由です。

 鍋島藩窯は、1628年(寛永5年)に有田町岩谷川内(いわやがうち)で開窯され、寛文年間(1661~73)には有田町の西部にある南川原山(なんがわらやま)に窯を移し、さらに1675年(延宝3年)には伊万里の大川内山(おおかわちやま)に移動しました。岩谷川内と南川原山両窯の実体は明らかではありませんが、大川内山窯は1871年(明治4年)の廃藩置県まで存続し、発掘調査によって窯址や多数の出土陶片が確認されています。

 江戸末期の記録によりますと、鍋島藩窯には細工人11人、絵書き9人、捻り細工人4人など合計31人の職人が雇用され、その他、お手伝い窯焼と称する窯元16人、さらに上絵付けを施す御用赤絵師、原料となる陶石を供給する御用土伐などの御用職がいたようです。また、彼らを監督する庄屋、群目付、御陶器方役がおり、さらにその上に有田皿山代官によって統括されていました。こうした組織のもとで、毎年5031個の御用品が制作されていました。その用途は2031個が将軍や幕府の要職への献上・贈答、3000個は鍋島家の自家用品やさまざまな贈答品であったといわれてますが、詳しくは分かりません。(「別冊太陽 骨董をたのしむ10 色絵絢爛」に所収されている鈴田由紀夫氏の「献上鍋島焼の完成と展開」参照)

 将軍・幕府要職への献上の内訳は、鍋島藩の記録によりますと、将軍には鉢・大皿・中皿・小皿・猪口の五品82個、後継の大納言にも同じで、幕閣の老中と京都所司代には三品、鉢1、大皿50、及び皿・小皿・茶碗皿・猪口の中から50、計101個。若年寄、御側、寺社奉行、奏者番、大目付、留守居、町奉行、切支丹改め、長崎奉行、目付に三品、鉢1、大皿・皿・小皿・茶碗皿・猪口の中から二品20個ずつ、計41個を37人から43人に合計約2.000個を贈答したとあります。

鍋島様式の特徴

 鍋島藩の献上品は皿を中心とし、規格・技法・意匠などに対する藩の厳しい管理統制の下、洗練された美意識と技術力の粋が追求されました。皿の器形は、盛期鍋島になると「木盃形(もくはいがた)」と呼ばれる深くて高台の高い器形に統一され、径は五寸、七寸、尺を基本の寸法と定められます。

 鈴田由紀夫氏はサントリー美術館の図録「誇り高きデザイン鍋島」(2010)に所収の「鍋島デザインのルーツと美」で、鍋島様式の特徴として次のようにまとめられています。

  1. 器形について
    1. 皿が木盃形で見込みが深い
    2. 皿の高台が高い
  2. 文様について
    1. 高台に櫛葉文などを描く
    2. 裏面の三方に文様を配する
    3. 表と裏の文様の上下が連動している
    4. 同一文様が複写されている
    5. 墨弾きの技法が多い
  3. 色使いについて
    1. 色鍋島の場合、藍色の染付に赤、黄、緑の色絵を基本とする
    2. 染付の線描きの上から透明性の高い黄や緑を被せて文様を表す
    3. 赤の下には染付で下描き薄い輪郭線を描く

 鍋島の絵付の意匠は和様を基調としつつ、伝統に拘泥しない独創性が要求されました。様式については、初期・盛期・後期に分けられまが、区別する具体的な年代の解釈には諸説あります。色鍋島は、染付の青色に上絵の赤・緑・黄を加えた4色以内で構成さています。特に赤絵は、濃淡の使い分けや点描によって紫色から桃色、茶色まで自在に表現されています。金彩、紫、黒はほとんど使用されていません。「墨弾き」の技法は、有田の諸窯では1650年~60年代頃にはじまり、鍋島にもさかんに用いられます。

初期鍋島とは

 初期鍋島(1675年~1693年)の作品は有田の岩谷川内に藩窯が設けられ、変形皿(15センチ程度)を中心に小皿(約12センチ)や猪口などが主に生産されました。大皿や尺皿などはほとんどありません。その後、窯は南川原山、大川内山に移動しますが、以後1690年代までの鍋島を「初期鍋島」と呼びます。初期鍋島では七寸皿(約20センチ)程度までは制作されていますが、尺皿(直径約30センチ)は稀と言われています。岩谷川内藩窯時代には、鍋島の外面に染付文様を入れることはほとんどありませんが、大川内山藩窯に移ってからは、外側面に裏文様を描き、高台にも文様を描くようになります。日峰社下窯の発掘で初期の鍋島が出土し、初期鍋島の特徴が明らかになりました。その出土した作品を見ますと、薄瑠璃釉を使ったり、色絵の輪郭を染付線で描いたりしています。染付線は後の鍋島が特徴とする薄い染付線と違い、初期色絵と同様に普通の濃さの染付線です。また盛期の鍋島には見られない、白地に赤線で文様の輪郭を引き、その中を明るい緑と黄色で塗ったものもあります。裏文様は後の七宝繋文ほどの精緻さはなく、唐草などが描かれていますが、規格性は低いようです。高台の文様も四方襷文(たすきもん)や鋸歯(きょし)状の連弁文などが多く、後の櫛歯(くしは)文のような整然とした文様表現とは異なります。全体に盛期の鍋島ほどの完璧さはなく、有田の技術をベースとしながらも藩窯としての創意工夫が見られます。

◆盛期鍋島とは

 盛期鍋島(1693年~18世紀後半)の作品を見ていますと、その様式美を作る独特の条件があることに気付きます。鈴田氏の説明によれば、皿は木盃形で見込みが深く、高台が高いのが特徴です。器形は五寸皿、七寸皿、尺皿を基本とします。中でも、徳川将軍家の献上鍋島の品目のうち、鉢にあたる尺皿は、例年2枚ずつ献上されたといいますから、数は非常に少ない訳です。皿の裏面には、七宝繋文を代表とする各種の裏文様が三方に配されています。この三方の文様は、一般の伊万里焼の場合には表と裏の文様の上下がほとんど対応していませんが、鍋島の場合は表の絵の上下と対応し、三方の文様を結んだ三角形の頂点は表の絵の頂点と一致します。また、高台の外側には櫛状の連続文様を巡らし、七宝繋文や如意頭連弁(にょいがしられんべん)文が描かれていますが、盛期のものにはこの櫛文が多く見られます。

後期鍋島とは

 後期鍋島(19世紀~1871年)の作品は、盛期の色鍋島の華やかさに比べると見劣りがしますが、その特徴は上絵付けが赤色だけという作例が多いことです。染付の藍色に上絵付けの赤色という二色は独特の趣があり、染付の線は細く繊細ですが、盛期の格調高い力強さはありません。鍋島藩窯は1871年の廃藩とともに終わり、その後は藩窯の職人たちによって精巧社が設立され、鍋島藩窯の様式が復興され、あるいは個人によって鍋島の伝統が継承されました。

色絵水仙図皿 鍋島 江戸時代後期・19世紀 径34.0センチ 高台径3.2センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵