やきもの曼荼羅[38]日本のやきもの20 金襴手

色絵金襴手赤玉雲龍文鉢 伊万里・古伊万里献上手様式 江戸時代・17世紀末~18世紀前半 高10.8センチ 口径25.9センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵

古伊万里金襴手

 江戸時代の元禄年間(1688~1704)になると裕福な町衆が文化の主役となり、華麗な色絵磁器が求められるようになります。有田でも景徳鎮窯の金襴手、特に嘉靖(かせい)金襴手を手本とした、金泥を色絵素地に焼き付ける豪華な意匠の作品が開発されます。それが、17世紀末から18世紀初頭にかけての古伊万里金襴手です。古伊万里金襴手には、国内向けの製品とヨーロッパ向けの製品の2種類があります。この2種類は形や図様がまったく違います。国内向けは、染付と金彩のある上絵付を組み合わせた金襴手で、一方ヨーロッパ向けは、染付と赤と金彩を主とした上絵付けで文様が描かれた金襴手です。当時のヨーロッパでは、後期バロック趣味と相まってこうした金襴手の作品に人気があったようです。柿右衛門様式や国内向けの金襴手などの作品と比べますと、ヨーロッパ向けの金襴手はやや粗略な部分もありますが、その躍動感に溢れた作行きには力強さがあり、独特の華やかな雰囲気が感じられます。金襴手は江戸時代を通じて大いに好まれ、その写しが江戸時代後期にも流行します。明治時代になると、薩摩焼が欧米輸出用に金泥をたっぷりと使った薩摩金襴手が完成し、世界中の人気を集めます。

金襴手(献上手古伊万里)

 国内向けの金襴手のうち、特に上質なものを献上手古伊万里と言います。染付と金彩のある上絵付けを組み合わせた、豪華絢爛とした意匠の古伊万里で、主として献上品として作られました。献上手古伊万里は、鉢・皿・碗など実用的な器が主です。兜(かぶと)鉢・蓋茶碗などは中国の金襴手に倣ったものですが、独楽(こま)鉢は日本の独自のものと言われています。また文様は、赤玉雲龍(あかたまうんりゅう)文・荒磯(あらいそ)文・琴高仙人(きんこうせんにん)文・寿字文・宝尽くし文・五艘船文など、唐物趣味をうかがわせる内容となっています。高台内に二重円圏線があり、「大明萬暦年製」の染付銘を持つ鉢類などには優れた作行が見られます。1690年代から1710年頃までが、その完成期と考えられています。国内向けの金襴手には、口縁部を折縁とした鉢が多く見られますが、ほかに姫皿、扇面、熨斗(のし)、破魔弓(はまゆみ)をあしらった変形皿もあります。これらがいわゆる「元禄柿」(伊万里焼で高台内に染付で「元禄六酉 柿」「元禄八乙亥 柿」「元禄十二年 柿」のように、元禄の紀年と柿の文字を記したもの。柿は酒井田柿右衛門の柿と考えられる)に続いて金襴手様式を確立したと言えます。変形皿の方は中国陶磁の影響は少なく、鉢と同じく丁寧な技法で作られています。

色絵赤玉雲龍文鉢

 写真は、献上手古伊万里(金襴手)を代表する「色絵赤玉雲龍文鉢」です。内側面に赤玉文を散らし、見込み中央に雲龍文が描かれています。外側面には鳳凰文が配されています。高台内には二重円圏線があり、「大明萬暦年製」の染付銘があります。中国・景徳鎮の金襴手の影響を踏まえながら、独創的なデザインとなっています。華やかさを好む元禄時代の町衆の間で流行した献上手の優品です。

金襴手(輸出手古伊万里)

 輸出手古伊万里の色絵を代表する金襴手は、大壺・大瓶・大蓋物・大盤などの大作と、日常の皿・碗・鉢などの実用品から構成されます。その図様の主題は、元禄頃から日本の風俗や建物、風景などを描いたものが目立つようになります。はじめは中国陶磁を目指していましたが、やがて肥前磁器の脱中国、和様化が展開します。輸出手の金襴手は、色絵具を多用しない、染付と赤と金泥のみの金襴手で、こうした色絵を従来、染錦(そめにしき)手と言ったようです。また、西欧では、オールド・ジャパンと呼ばれて親しまれていました。ある輸出古伊万里のコレクターは、オランダに残るオランダ連合東インド会社と日本との取引の記録を調査し、色数の少ないものほど値段が安いことに注目し、何らかの経済的理由があったのではないと推測していますが、興味深い話だと思います。古伊万里金襴手様式のヨーロッパにおける模倣作品は、柿右衛門様式の模倣作品に比べると、まとめて紹介されることが少ないようです。このことは、柿右衛門様式と古伊万里金襴手様式の評価の違いを反映しているように思います。古伊万里金襴手様式が誕生すると、この様式が肥前磁器の色絵の主流となります。輸出手古伊万里の特徴は、濃い染付地に金彩を多用し、主に赤、薄赤の色絵で文様を描きます。

江戸中期と江戸後期の色絵

 江戸中期の色絵は、基本的には元禄年間に成立した金襴手の様式を継承しています。染付の藍色に上絵付けの赤と金で彩色し、さらに緑や黄を加えます。この配色は、色絵作品でよく見られますが、江戸中期の色絵は元禄年間の色絵と比べて文様構成がかなり変化し、華やかで柔らかい印象を受けます。

 江戸後期の色絵は、寛政期(1789~1801)に始まる新しい絵の具が注目されます。従来の有田の絵の具にはなかった新しい色が寛政期から始まります。盛り上がる絵の具は、清朝磁器の上絵付技法である粉彩(ふんさい)の影響が考えられます。不透明な白濁した上絵の具が基本となり、濃厚で派手な色調の作品が生まれます。