やきもの曼荼羅[33]日本のやきもの15 唐津(其の九)

李朝粉引は磁器かと思うほど化粧土の食いつきが良い

 須藤善光氏(前回連載参照)は「いま唐津で作られる粉引は、李朝粉引に似ていない。ここでも陶土と化粧土の選択を間違えている。李朝粉引は磁器かと思うほど、化粧土の食いつきが良い。胎土がしっかり締まっていて実用に耐える。カオリン系の陶土で出来た陶器は、一見火度が上がっていない様に見えて、充分に実用になる強度を持っている。それに、白いカオリン単味で出来ている化粧土は強靭であり剥げることがない。唐津の粉引と比較すれば、その差は歴然とする」と述べています。現代作家の粉引作品を買って、使い込んでいるうちにがっかりすることがありますが、須藤氏の説明で納得出来たような気がします。

唐津が唐津である条件を満たしていないと、唐津とは言えない

 「今日の絵唐津には、古唐津に見られる胎土と釉薬の一体感が無い。砂目の粗い土の上にガラスの膜を貼ったようでよそよそしいのだ。古唐津にみる絵唐津は、今日の唐津焼のように粗い土を使った物はほとんど見られない。胎土はきっちりと充塡されていて、目立つ貫入も無いのが多い。実用食器を生産したのであるから、当然の事である」と、須藤氏は述べています。櫨ノ谷窯(はぜのたにがま)の吉野靖義氏も、唐津の愛陶家の間で「『唐津焼は好きだが、いい味がついてくる頃になると、なぜか欠けやすくなり使いづらい』という声をよく聞く」と述べています。古唐津は、見た目は明らかに現代より低火度で焼成しているのに、なぜか生地がしっかり目詰まりしています。だから、陶器なのに、焼き上がった器を指で弾いてみると、はるかに高い打音が出ます。唐津が唐津である条件を満たしていないと、唐津とは言えません。これはとても重要なことです。砂岩は、その重要な条件の1つだと私は思っています。

砂岩説はいまも進化しながら、未来に向かって受け継がれている

 砂岩説に興味を持った私は、日本陶磁協会発行の「陶説」に是非原稿を書くよう須藤氏に依頼しました。そして2000年(平成12年)、「唐津の土」「続・唐津の土」「続・唐津の土(二)」の3篇が掲載されました。さらに、私の紹介で2003年(平成15年)「芸術新潮」の唐津特集号に「陶土をめぐるミステリー」と題して須藤氏の砂岩説が掲載され、2004年(平成16年)には「トンボの本 唐津 日本のやきものルネッサンス」にも収録されました。

 櫨ノ谷窯の吉野氏が日本陶磁協会の事務局に訪ねて来られたのは、2001年(平成13年)銀座の兜屋画廊で砂岩を原料とした唐津焼の初個展を開催された時です。私は、日本経済新聞社の美術記者をしていた友人の竹田博志氏を誘って画廊に出掛けました。その後、吉野氏にも2回ほど「陶説」に寄稿してもらいました。その「〝初期古唐津〟再現の夢を追って十年」という文章には、「工房の一番端に唐臼(写真参照)を据えて、まもなく十年近くになる。私の〝古唐津〟への再々挑戦は、この唐臼を原点として始まった。この他方で泥岩(どろいし)と呼んでいる砂岩を砕くためだ。ゆっくりとゆっくりと、唐臼は狭い谷間に幾日も音を立て続けている。私には今、400数十年前の先人陶工達の息使いを音で感じる日々である。ようやく、長年の胸のつかえが取れる日が近い事を予感させる音でもある」と書かれています。吉野氏は、そのために10年ほど収入の不安と闘いながら、売り物にならない試作品を作り続けました。須藤氏も毎週のように櫨ノ窯に来ては、試作品と古唐津の陶片とを見比べながら、夜遅くまで2人で議論を繰り返したそうです。

 それから数年が立ち、再び唐津を訪ねた時に14代中里太郎右衛門氏から人気陶芸家の梶原靖元氏を紹介され、いま唐津で砂岩説が広がっていることを知らされました。須藤氏の「砂岩説」がようやく認められ始めたのです。吉野氏は70歳を機に、それまで築き上げてきた櫨ノ谷窯を末娘の敬子氏に譲り、「靖義」を「魁(かい)」と改名して、真剣に「本手唐津」に挑戦しようと決意されましたが、病魔によって74歳で亡くなられました。砂岩説の提唱者の須藤氏も、もうこの世にはおられません。しかし、砂岩説は梶原氏、吉野氏の末娘の敬子氏、若手で注目される矢野直人氏らを中心に、いまも唐津の陶芸家たちに受け継がれています。私が唐津を始めて訪ねた時には、唐津には町内会もなく、まとめることが不可能と言われていましたが、砂岩説が1つの起爆剤となって、唐津が動き始めていることを、とても嬉しく思います。

 東京のギャラリーのサイトには、「ここ数年、古唐津に関する新たな説が浮上し、にわかに注目を集めています。それは『古唐津は陶器ではなく磁器であった』というものです。これまで多くの陶芸家が古唐津の窯跡近くの粘土を使用し、その再現を試みてきましたが、残念ながらその再現に完全に成功したとは言えません。古唐津や古伊万里は、当時、既に磁器を焼成する技術を有していた朝鮮の影響を色濃く受けていたと考えられています。その技術を用い、日本でも同じ磁器を焼成しようと試みたところ、原石となる磁石が見つからなかったため、砂岩と呼ばれた別の石で古唐津が焼かれ、江戸初期に有田で泉山の磁石場が見つかった後は、砂岩が使われなくなり、自然と古唐津が衰退したという考え方です」とあり、砂岩説が広く認知され始めています。

 粘土の作り方にはいろいろな方法があると思いますが、須藤氏は、「当時の耐火性の低い『泥窯』は、熱反応のよい粘土でないとやきものは出来ない。そのためには大粒なものから微細なものまで粒度分布の広い粘土が必要だ。粒度分布を広くするには、ゆっくりと時間を掛けて唐臼で石を砕くしかない。スタンパーではだめだ」と言っています。吉野氏が、唐臼にこだわる理由がそこにあります。砂岩唐津(写真参照)を作るには、低温で焼き締める窯焚きの技術なども必要であり、単に砕いた粉を可塑性のある粘土にすればいいだけの話ではないようです。現在、唐津のすべての陶芸家が、砂岩説に傾倒している訳ではありません。しかし、砂岩説はいまも進化しながら未来に向かって受け継がれています。それは、最初に砂岩説を提唱された須藤善光氏、本手唐津(砂岩唐津)を作り上げることに命を懸けた吉野靖義氏の大きな功績がなかったら、現在の砂岩唐津はなかっただろうと思います。