縄文人は意外とグルメ
縄文時代の始まりについては諸説がありますが、考古学の報告書によれば「土器の出現」をもって縄文時代としているようです。土器の出現は、動物を追って移動する狩猟中心の生活から、河川漁労を中心とした季節的定住が始まったことを意味します。縄文時代草創期の旧石器時代、日本列島の住人は内陸部に住んでいました。多摩川の上流に位置する東京都あきる野市の前田耕地遺跡からは、大量のサケの骨が見つかっています。これは、秋に遡上(そじょう)するサケを産卵場において捕獲、保存処理したことを証明するものです。中国や西アジアのような草原性新石器時代とは違って、日本の縄文前期は森林性新石器時代といわれ、森林資源を独自の方法によって増殖し、食糧源としていました。クリ、クルミ、シイ、ドングリ、トチなどの木の実がそれであり、主なカロリー源はクリやヤマイモであろうということです。この新石器時代に人々は海岸に移ったといわれています。縄文時代はいまよりはるかに複雑な海岸線をしており、日本列島は雨量が多く森林に覆われていました。そうした地理的条件が、格好の漁業資源となり、木の実などの食糧源を育んだのであろうと思われます。縄文の貝塚からはマグロ、ボラ、クロダイ、スズキ、コチ、ハモなどの魚骨が発見されています。貝は主にカキとハマグリが多く、小さい貝は採らずに大きくなった貝だけを採っていたといいますから、縄文人は意外とグルメであったようです。
シンプルなものからダイナミックなものまで
縄文土器というと「火焔土器」のような装飾性豊かな荒々しい造形の土器をイメージしやすいかと思います。新潟県十日町市笹山遺跡出土の国宝「火焔型土器」(縄文中期)が最も有名ですが、その造形が燃え上がる炎を彷彿とさせるところから「火焔土器」と名付けられました。その力強いダイナミックな造形は、縄文以降の日本はもちろん、世界の他の地域の土器にも見られない独自なものです。ですが、初期には「無文土器」や「隆起線文土器」のようなシンプルなものも存在します。また、後期から晩期にかけては装飾のより単純な均整のとれた土器が作られています。八戸市風張1遺跡から出土した「深鉢形土器」は均整のとれた完成度の高い土器で、私の好きなタイプの土器です。
微笑ましい「深鉢形土器」の秘密
「深鉢形土器」は群馬県渋川市道訓前遺跡から出土したもので、重要文化財です。高さ62センチの、縄文中期の作品です。この土器の文様は、男女が手をつないでいる情景と考えられています。胴の上下の区画内に手を繋いだ四人の人物が配され、腕の先が渦巻きになっている人物が女性、渦巻きになっていない人物が男性、その男女が交互に配置されています。男女が手をつなぎ、踊りながら祭りをしている図像ではないかといわれています。もし、そうだとしたら、じつに微笑ましい情景ではないかと思います。
岡本太郎と縄文人の魂の造形
縄文の魅力について語った文章の中では、岡本太郎の著書「日本の伝統」の「縄文土器―民族の生命力」が一番説得力のある文章ではないかと思います。岡本は「背景としてだけ考えられていた空間を、内部に取りこみ、造型要素に転化せしめ、ついには空間そのものを彫刻したのが二十世紀のアヴァンギャルド、抽象主義彫刻家たちの偉大な功績です。(中略)ところで縄文土器における空間処理はこれらのアヴァンギャルド芸術にくらべてすこしも劣らないばかりではなく、かえってはげしいのです」といい、さらに「あの複雑で奇怪な縄文式模様が現代の『芸術のための芸術』のように、単に美学的意識によって作りあげられたのではないことも確かです。それは強烈に宗教的・呪術的意味が帯びており、したがって言いかえれば四次元をさししめしているのです」と語っています。ところが、弥生時代になると「技術的にははるかに進歩し、形もととのってきたにもかかわらず、あのたくましい空間的取りあつかいは影をひそめ、形態も模様も、ともにきわめて幾何学的・静的に平面化されてしまいます。(中略)この弥生式の時代に発生した平面性、シンメトリー(左右均斉)の形式主義、均衡は、以後近世までの封建的農業社会の産物である日本文化を決定的に特色づけています」と結んでいます。
それは、やきものが魂の造形から眼の造形に変化していったからではないかと思います。眼ではなく五感で捉えるならば、私は縄文土器に一番空気(空間)を感じます。宗教的・呪術的意味合いも確かにありますが、縄文時代の自然はいまよりも何倍も懐が深く大きなものであったに違いないと思われます。そうした大自然があったからこそ、崇高な魂が存在し得たのです。私は、縄文土器は縄文人の魂の造形であると思っています。その縄文の遺伝子は、今も確実に我々の胎内の中に眠っています。