やきもの曼荼羅[5]六古窯を訪ねる(其の一)越前

一番遅れて発見された越前窯

「六古窯」の中で越前窯が一番遅れて発見されました。それまでは、瀬戸窯・常滑窯・信楽窯・丹波窯・備前窯を併せて「五古窯」と呼ばれていました。「六古窯」というのは、中世から現在まで絶えることなく継続している窯業地の呼称で、その名付け親は陶磁学者の小山冨士夫(1900-1975)です。現在、全国で87カ所の中世古窯跡が知られていますが、その多くはすでに廃れています。
 1942(昭和17)年夏、小山は越中立山登山の途中、一日だけ越前古窯を調査しますが、残念ながら、その時は確認出来きませんでした。その5年後(戦争を挟んで)の1948(昭和23)年5月、小山は日本陶磁協会の事業のひとつとして、再び越前古窯跡の発掘調査を行い、9月には「越前古窯の発掘」という報告書を『国立博物館ニュース』に発表します。そして、1955(昭和30)年代には、それまでの「五古窯」に対して「六古窯」という呼称が、小山によって提唱されました。

越前焼の研究に生涯をささげた水野九右衛門

 その小山を越前古窯跡に案内したのが、水野九右衛門(1921~1989)です。九右衛門は1947(昭和22)年に福井県立丹生高等学校教諭となり、越前古窯分布調査の研究をはじめます。その研究の集大成ともいうべき『時代別古越前名品図録』(1975年 光美術工芸刊)の自序には、「北陸はやきものを作る条件に真にめぐまれた風土ではなかった。十一月ころから時雨がふりはじめ、やがて日本海のかなたから吹きつける吹雪が横なぐり丹生(にゅう)の山々を吹きぬけて白煙を巻きあげる。そして春三月まで雪深い暗い世界が展開するのである。窯場も農民もじっと耐えて春を待つのである」とあります。
越前窯は、平安時代後期に常滑窯の影響を強く受けて福井県丹生郡越前町に誕生しました。そのため常滑窯とよく似た作風のものもありますが、越前の土は白くて常滑の土より良質といわれています。高温焼成が可能なため焼肌が硬く焼き締まって光沢があり、重量感にあふれているのが特徴です。平安時代から鎌倉時代にかけては小型のものが主流で、甕(かめ)・壺・すり鉢を中心に、わずかながら三耳壺(さんじこ)・四耳壺(しじこ)など様々な形態の壺が生産されました。とくに片口小壺は、歯を黒く染めるためのお歯黒液を入れた「お歯黒壺」や「油壺」として使用されました。また、子供や乳幼児の墓として利用された甕墓(かめはか)は、越前独特の風習のようです。

越前焼の破格の造形美

 越前窯の壺や甕は粘土紐輪積み成形で造られました。高温焼成のため窯の中で歪(ゆが)み、破格の造形美が生まれました。この成形法を越前では「ねじ立て」と呼びます。たっぷりと流れる自然釉と、堂々とした風格のある壺や甕を眺めていると、越前の険しい自然の中で、力強く生きる人々の姿が彷彿としてきます。六古窯の中で茶の湯の影響を受けなかったのは、おそらく越前だけかもしれません。右衛門さんは「古越前は一口にいって雑器である。人々の生活用具として水甕(みずがめ)はどこまでも水甕であり、人間のきびしい生活の体験を通して生まれてきたやきものである」と書いています。
 夏の穏やかな越前と、冬の雪深い越前では、雲泥の差があります。四季折々の越前を知らなければ、越前を語ることは出来ません。越前古窯は、けもの道のように険しい山腹にあります。その窯跡をはじめて訪ねた時、「どうやって、ここから越前の港まで運んだのだろう」と不思議に思いました。その港から越前窯は、北は北海道南端部、南は島根県まで運ばれたそうです。越前の甕や壺と越前の風景が重なって見えるのも、そこに同じエネルギーが内包されているからだと思います。

師・土門拳の夢をかなえる

別冊太陽から「六古窯を訪ねる」が発刊

 写真家の土門拳(1909-1990)の代表作といえば、まず「古寺巡礼」が挙げられます。土門は「古寺巡礼」と平行して13年かけて「古窯遍歴」を撮り続けました。ところが、元々やきものには興味がなかったそうです。土門がやきものに開眼したのは、丹波三本峠古窯址との出合いからです。そして、中世陶器に備わった自然の力、すなわち「天工」の美を見出します。土門の眼で信楽壺の美を捉えた迫力ある写真集『信楽大壺』(1965年 東京中日新聞出版局刊)は、古信楽の魅力を多くの人に伝えました。この写真集で、土門は眼には見えない信楽の本質を捉えようとしました。そこが、写実にこだわる学術写真と、リアリズムを追求する土門写真の違いです。撮影中、土門は「六古窯を出版する」といい続けたといいます。とろこが、越前窯を撮影することなく亡くなりました。そして、「師・土門拳の夢を叶えたい」と弟子の藤森武氏から頼まれ、〝別冊「太陽」六古窯を訪ねる〟の旅がはじまりました。その出発点が、土門が撮り残した越前古窯でした。

越前の名品「三耳壺」、ほか

 「越前古窯は雑器ばかりで名品はない」といわれてきましたが、決してそんなことはありません。この「三耳壺」は数例しか知られていませんが、その中でも最も古い名品です。福井の某寺院の縁の下から発見されたと聞きますが、これほどの優品がそんなところから発見されたとは信じられません。ラッパ形に大きく広がった口造りが印象的で、とても丁寧な造りの壺です。力強く張り出した肩には3本の沈線が巡り、その中央線上の3ヵ所に耳が付いています。また、口縁部から腰部にかけて淡緑色の自然釉が斜めに流れています。
 その他にも、越前古窯博物館には、窯の中で高温に耐えきれず腰砕けのように胴の一部が変形した「自然釉大壺」。福井県陶芸館には、濃緑色と青白色の自然釉が口縁部下から底部に向かって斜めに勢いよく流れる「双耳壺(そうじこ)」。地方の愛陶家のお宅には、自然釉が雄渾に流れる「自然釉壺」や「甕」など、越前の名品が所蔵されています。