京焼における磁器の開発
京焼における磁器の開発は、寛永年間(1624~44)に九州の有田焼磁器が京都にもたらされ、尾形乾山(1663~1743)も試作を行いますが、本格的な磁器の焼成には至らなかったようです。そんななか最初に磁器の焼成に成功し、京焼に新風をもたらした先駆者が奥田潁川(おくだえいせん)です。潁川の登場によって、京焼に新たな京風の磁器の流れが出来ました。
奥田潁川作 重要美術品「色絵飛鳳文隅切膳」
形は隅切膳ですが、描かれているのは中国風の図柄です。中央に花喰い鳥を描き、周りには魚文と花文が三ヵ所に描かれています。寄贈者の大河内正敏(1878~1952)は子爵。理化学研究所(理研)の3代目所長。東京帝国大学教授時代には、奥田誠一(のちの陶磁学者)と共に「陶磁器研究会」を発足します。1945年の日本陶磁協会創立時には顧問を務めます。
京焼における磁器の先駆者・奥田潁川
奥田潁川(1753~1811)は本名を潁川庸徳(えがわつねのり)と言います。先祖は明末清初の動乱を逃れて日本に帰化した陳姓を名乗る中国人と言われていますが、故地に因み潁川(えいせん)を名乗ります。京都の大黒町通五条上ル大黒町(現・東山区)で「丸屋」という屋号で代々質屋を営む恩田家の養子となり、5代茂右衛門を継ぎます。「奥田家過去帳」によれば、4代茂右衛門庸清も潁川家からの養子とありますから、潁川にとっては叔父にあたります。潁川が陶業を開始した時期は定かではありませんが、「天明年製」と「潁川(花押)」の銘のある呉須赤絵写しの「色絵花龍文筆洗」が残っていますので、作陶を志したのは30歳前後であろうと推定されています。やきものの基礎を清水焼の窯元・海老屋清兵衛に学び、初代清水六兵衛(海老屋六兵衛)とは兄弟弟子になります(田内梅軒『陶器考』)。しかし初代六兵衛が清水焼陶器の正統を守ったのに対し、潁川は裕福な町人あがりの陶工らしく新規の磁器開発に意欲を燃やし、陶技を磨いていきました。
潁川の作品の中で、底に「天明年製」(1781~89)と鉄絵で年銘のある呉須赤絵写しの「筆皿」が残されており、天明年間(1781~89)の30歳を過ぎた頃には6代に家業を譲って作陶を始めていたと思われます。潁川は、当時京都で流行し始めていた文人趣味をいち早く取り入れて、中国明末の古赤絵、呉須赤絵、染付、交趾などを本歌とした作品を制作しています。呉須赤絵写しを最も得意としましたが、中国製のものは大皿、鉢、香合などに限られているのに対して、潁川の作品は火入、香合、水指、花生、杓立、筆洗、巾筒、仙盞瓶(せんさんびん)などの茶器や和風膳、向付、鉢、皿といった飲食器などを多く制作しています。京焼における磁器開発の先駆は奥田潁川によって担われましたが、やがて近隣の清水五条坂の陶家の間でも文化年間(1804~18)には本格的に京焼磁器の生産が開始されます。その先頭に立ったのは、当時の窯場で最も有力な陶工であった和気亀亭(亀屋)、水越与三兵衛(伊勢屋)、高橋道八(2代、仁阿弥)などの人々でした(『陶磁器説』明治5年)。清水焼磁器は潁川の場合とは異なり彼らが連合してその量産体制を確立して行きましたが、潁川の中国磁器風な作品に比較すると京都の磁器らしく磁質も精選され、洗練された作風の製品が開発されています。
青木木米作 「染付名花十友図三段重蓋物」
この三段重蓋物は雅趣に富んだ染付で、10種の草花とそれに対応する清友、艶友、名友、佳友、禅友、雅友、浄友、殊友の十友の文字を散らしています。中国的な主題の中に器形、絵付などは京焼伝統の技法を踏まえて描いています。蓋裏、上段、中段の底裏に二重小判形の木米印を捺し、下段の底裏に染付で「陶旗職古器観木米製」の銘款を記します。また桐製春慶塗の箱には「文化十二年乙亥臈月 蘭渚室蔵 同十三年丙子閏八月 筥製」の墨書があり、木米49歳のもっとも円熟した頃の磁器作品であることが分かります。
江戸後期の名工・青木木米
青木木米は江戸後期の京焼の陶工ですが、南画家としても知られています。『浪華篠崎弼(すけ)』には
「俗称八十八(やそはち)。縮めてその名を米と為すなり。因って自ら木米と称すと云う。字は佐平、九九鱗(くくりん)と号す。其先は尾張の人。来って京師(けいし)に住す。木米陶を善くすを以て世に聞ゆ。少壮より儒雅の交わりを好む。為に当時の諸老先生に愛せられる。中年に耳聾す。晩に山陽頼子成(さんようらいしせい)と善し。子成その頗る識字を称す。天保癸巳五月十五日病没す。年六十七。遺孤有り、名は周吉、時に八歳」
とあります。木米の来歴に先々代の出自まで記したものは見かけませんが、愛知県出身の私にとっては、「其先は尾張の人」という部分が気になります。杉田博明著『京焼の名工・青木木米の生涯』(新潮社 2001年)によれば、「先々代までは、尾張藩徳川七代宗春(むねはる)に御側役(おそばやく)として仕えた近侍であった」とあり、粟田青蓮院の日次をまとめた『華頂要略』には
「青木佐兵衛の父は元尾張藩殿に仕う。たいまい(玳瑁)の笠を召されし殿様の御側役なりしが、御咎のとき、御側にさしおかれし妓女の類あまたありしを皆佐兵衛に賜りて、夜中俄に名古屋の城中を出、浪々となる。茲(ここ)に於いてまず伊勢古市(ふるいち)に行き拝領の婦人に琴三絃渡世をなさしめ、後年に京師祇園新地縄手町に移り、木屋と号す。あさと云う美娘有り、諸人之を愛す」
と記されています。当時の茶屋は、赤前垂れの茶点て女や茶汲み女がいて、客を呼び込んで茶をふるまう茶店を言ったようです。木米が松平乗羡(のりよし)に献上した自伝「上奥殿侯書」には、篆刻家(てんこくか)・書家として著名な儒者・高芙蓉(こうふよう)のもとに幼少の頃より出入りし、中国の銅器・玉・銭などの古器を学んで、実際に古銭の鋳造も手掛け、また大坂の大富豪で文人の木村蒹葭堂(けんかどう)が所蔵する中国清代の朱笠亭(しゅりゅうてい)著『陶説』六巻本を読破し、1804年(文化元年)に官許を得て翻刻を行ったとあります。また『蒹葭堂日記』によれば、蒹葭堂の下への初訪問は1796年(寛政8年)1月で、「青木八十八、印刻ノ人」とあり、当時は篆刻家として知られていたようです。1802年(享和2年)の『煎茶早指南』には「佐兵衛は唐物をうつすに好を得たるものなり」と紹介されています。
木米は、奥田潁川の許でやきものを学び、粟田口焼の陶家11代宝山文造にも学んでいます。独立後は、1805年(文化2年)に青蓮院宮粟田御所の御用焼物師となります。そして、木米の名声が広まると、和歌山藩主・徳川治宝や金沢町会所から招請され、紀州では陶土が見つからず帰京しますが、金沢には文化3年に赴いて春日山に本窯を築き、青磁や色絵などを焼造しますが、翌年金沢城焼亡のため帰京します。さらに頼山陽、田能村竹田、中島棕隠、小石元瑞穂など当代一流の文人、煎茶人との親交を深め、京都での文人趣味、煎茶の流行を背景に、その冴えた作風から京都第一の評価のある急須や煎茶碗、涼炉などに秀でた作品を残しています。煎茶器では急須類が多く、交趾写し、焼締めの南蛮写し、中国宜興(ぎこう)窯製の白泥・朱泥・烏泥(うでい)写しなどを盛んに制作しました。また染付では古染付・祥瑞(しょんずい)、呉須染付などの明末清初の中国物写し、さらに刷毛目、三島、御本などの高麗物、仁清、織部、黄瀬戸などの和物にも手本を求めました。晩年は真葛(まくず)長造を後継者に選び、1833年(天保4年)には煎茶の祖売茶翁(ばいさおう)に因む大規模な煎茶会を企画して、100人分の急須と煎茶碗を焼きましたが、その直後に死没し、五条坂の上州寺に埋葬されました。
私は木米のやきものとともに南画が大好きで、2023年にサントリー美術館で「没後190年 木米」展が開催されときには、これまで見たことのない多くの絵画作品を見ることが出来、興奮しました。