やきもの曼荼羅[60]日本のやきもの42 京焼(三)

文人陶工・尾形乾山の登場

 尾形乾山(けんざん)は1663(寛文3)年京都の呉服商雁金屋(かりがねや)・尾形宗謙の三男として生まれました。雁金屋は、後水尾天皇の中宮東福門院の御用商人でした。兄は琳派を代表する画家・尾形光琳(こうりん)です。光琳・乾山兄弟がそれぞれの才能を発揮できたのも、雁金屋という裕福な上層町衆の家に生まれ、その遺産の多くを譲られたからです。天才肌で奔放な光琳とは違い、乾山は内省的な好学の徒でした。彼は幼くして祖母や母、姉妹といった身内の死に直面し、父の死後間もなく、深省(しんせい)と改名します。この「深く省みる」という号には、なにやら乾山の悲愁な想いが込められているように思います。ちなみに、乾山とは窯名で、京都の西北の地(乾)にあったので、乾山と命名されました。乾山が若くして隠棲したのは、『徒然草』で知られている吉田兼好に憧れたからだといわれています。その隠棲は長くは続かず、生活のために「焼物商売」の看板を掲げることになります。しかし、乾山焼に記された詩賛や落款、または書画を眺めていると、やはり彼は文人を志向していたように思います。文人とは詩書画を余技として楽しむ人のことですが、なによりも職業と見られることを「俗」として嫌いました。のちに青木木米などが登場して文人陶工と呼ばれますが、それはみな教養を身に付けた上層町衆たちの道楽でした。道楽とは、「道を楽しむ」ことですが、本阿弥光悦の芸術は、その道楽をはるかに超えた、職業以上趣味以上のものがあります。乾山は「焼物商売」を職業としましたが、その想いはやっぱり文人精神にあったのではないでしょうか。

尾形乾山作 尾形光琳画 銹絵観鷗図角皿

尾形乾山作 尾形光琳画 銹絵観鷗図角皿 江戸時代 高2.9センチ 縦および横22.2センチ 東京国立博物館所蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

 乾山・光琳合作の角皿で、「寂明光琳畫」の落款により光琳が江戸より帰洛した1709(宝永6)年から光琳が没した1716(享保元)年までの作品といわれています。よどみない軽妙な筆致で、光琳が土坡に立つ唐人物と水面に遊ぶ鷗2羽を描いています。底裏には、乾山が雄渾な書風で銘を書いています。

尾形乾山作 尾形光琳画 銹絵観鷗図角皿(底裏) 江戸時代 高2.9センチ 縦および横22.2センチ 東京国立博物館所蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

本阿弥光悦と尾形乾山の関係

 雁金屋の初代道柏(どうはく)の妻は本阿弥光悦の姉であり、その関係で尾形家は代々本阿弥家の芸術的気質の影響を受けることになります。乾山は、20歳のころ光悦の「陶法伝書」をその孫の本阿弥光甫(こうほ)より譲り受け、樂家四代一入(いちにゅう)の指導で楽焼の研究をはじめます。樂家に婿入りした五代宗入(そうにゅう)は、乾山の従弟にあたります。1689(元禄2)年、27歳で御室(おむろ)に習静堂(しゅうせいどう)を建てて隠棲し、1699(元禄12)年「焼物商売」を許可されて、二条家の山屋敷のあった鳴滝泉谷の地を二条綱平より拝領し築窯しました。また、野々村仁清からも『陶法秘伝書』を授かっています。乾山が「焼物商売」をはじめたころ、京都では伊万里焼が流行し、京焼は不振の時代であったといわれています。そこに登場したのが、藤原定家の和歌や古典王朝文学に主題をとった「定家十二ヶ月和歌皿」や洒落た趣の「銹絵百合形向付」、「元禄年製」の書銘のある斬新な意匠の「色絵石垣文角皿」(写真参照)、漢画的主題の「山水絵皿」などです。そのほかにも、欧風的なデザインのものや琳派的意匠のものなど、乾山焼は多種多様です。

二条丁子屋町時代の兄弟合作の「絵付角皿」

 鳴滝時代の後半には、兄の光琳が絵付に加わり、兄弟合作の「絵付角皿」が生まれます。『陶磁製方』には、乾山自身が「道具等の形、模様等を私、其上同名光琳に相談候て、最初の絵は皆々光琳自筆に画申候」と書いています。しかし、鳴滝での作陶が盛んになるにつけ京都市中との距離の隔たりが問題となります。そこで乾山は1712(正徳2)年、「鳴滝は京都より道法相隔たり不勝手の由」という理由書を役所に提出して、「二条通寺町西へ入ル町北側」の二条丁字屋町に移ります。乾山のこの目論見は大成功し、結果、京焼が町売りという新しい動向を見せます。乾山焼は1718(正徳3)年の『和漢三才図会』や、1720(正徳5)年に大坂の竹本座で初演された近松門左衛門の浄瑠璃「生玉心中」にも紹介されるほど人々の間で評判となります。中でも、二条丁子屋町時代の乾山のやきものの主体が茶入、茶碗ではなく、元禄期頃から登場する料理屋などで親しまれた高級な色絵向付の組み物セット、色絵皿の組み物セットなど会席(料理)器であったことも、乾山人気を助長する一つの要因であったと思います。

尾形乾山作 色絵石垣文角皿

尾形乾山作 色絵石垣文角皿 江戸時代 高2.6センチ 縦15.0センチ 横15.8センチ 京都国立博物館所蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

 これは、陶芸家の富本憲吉の旧蔵品です。赤、黄、青、緑、茶と色彩豊かで、大変モダンなデザインの角皿です。意匠のルーツは、明末新初期の中国陶磁に見られる氷裂文(ひょうれつもん)といわれています。乾山は、どこかでそれらを見て、自らのデザインに取り入れたのでしょう。

尾形乾山作 色絵石垣文角皿(底裏) 江戸時代 高2.6センチ 縦15.0センチ 横15.8センチ 京都国立博物館所蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)