日本の磁器生産が遅れた理由について
陶磁学者・小山冨士夫によれば、「わが国の磁器の起源は、中国にくらべると千年以上、安南・朝鮮にくらべても数百年おくれており、日本は東洋では磁器の一番おくれて発達した国である」と言います。では、なぜ遅れたのかというと、磁器の原料となる陶石が発見されなかったからです。しかし、江戸時代末から明治時代初めにかけては、各地で磁器の製造が起こります。愛媛県の砥部(とべ)、兵庫県の出石(いづし)、石川県の九谷、福島県の会津などでは、その地元で発見された陶石を用いて磁器を生産しています。ただし、京都の磁器は熊本の天草陶石を用いており、愛知県の瀬戸では陶石ではなく珪長石(けいちょうせき)を原料としています。ということは、陶石が発見されなかったことが、日本の磁器生産が一番遅れた理由かもしれませんが、それだけではないとも言えます。そこには、1600年代に入ってから日本で磁器の生産を始める必要に迫られた、なんらかの社会的状況があったのではないかと思います。
李朝風染付ではなく、中国風染付を手本とした肥前磁器
有田で磁器が誕生する以前は、中国から磁器(鎌倉時代までは青磁、室町時代後期からは染付が中心)を輸入していました。豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592~1603)によって連れて来られた朝鮮人陶工は有田(佐賀県)だけでなく、上野(あがの、福岡県)、高取(福岡県)、薩摩(鹿児島県)、萩(山口県)などでもやきものを制作していますが、それらは主に茶陶が中心です。日本で磁器の生産が始まった最大の理由は、明王朝から清王朝に替わるに当たって中国で内乱が起こり、そのため中国磁器の海外輸出が激減したことが大きな要因であると考えられます。中国の青花(染付)は、東南アジアや中近東だけでなく、オランダ連合東インド会社を通して広くヨーロッパにも運ばれています。鍋島藩の磁器生産は、1610年の磁器誕生から1640年代の色絵磁器誕生までの30年間は国内向けの初期伊万里(写真「初期伊万里 月に松竹梅文徳利」参照)が中心でしたが、1640年代以降は中国陶磁に替わって肥前磁器を世界市場に輸出することが鍋島藩の政策になっていきます。そのためには、李朝風の染付ではなく、中国風の染付でなければなりません。朝鮮半島で生産された染付磁器は、ほとんどが国内使用で、日本に輸出されることはありませんでした。
国性爺合戦について
近松門左衞門の人形浄瑠璃に「国性爺合戦(こくせんやかつせん)」という作品があります。中国人の鄭芝龍(ていしりょう)と日本人の母との間に生まれた鄭成功(ていせいこう)が主人公です。その成功をモデルに脚色した物語が「国性爺合戦」です。その主人公・和藤内(わとうない)の名前は、和人でも唐人でもない、また「国性爺」とは、皇室の姓を持った人という意味です。和藤内が異母姉の夫・甘輝(かんき)と協力して逆臣李蹈天(りとうてん)を討伐、明国を再興するという話です。成功の父・鄭芝龍は、いわば海賊の頭目で、台湾を拠点として生糸や陶磁器といった中国製商品を日本や東南アジアに運び、取引を持って財を成し、軍事力を維持します。当時、鄭成功は15万から18万人の軍隊を有していたといわれますから、驚くべき数字です。肥前磁器は、こうした鄭成功の一団やオランダ連合東インド会社を通して東南アジアや中近東、ヨーロッパまで輸出されることになります。
中国磁器に替わって世界市場を制覇した肥前磁器
では、肥前磁器の海外輸出はいつから始まったのでしょうか。鍋島藩では、1647年(正保4年)に有田皿山代官を置いて、肥前磁器の生産に管理体制を行います。みに「皿山」とは、江戸時代の肥前地方で呼ばれたやきものの生産地のことです。「有田皿山創業調べ」には、「正保四年(1947年)の頃は総焼物師かまど数百五十五、かまど車数は百五十五車なりし(窯焼百五十五戸、細工人戸数も百五十五であった)。又、この頃、伊万里・有田所々にて焼きしを、今の有田白川山そのほか十三ヶ山に御打ち寄せ相成りしなり」と述べています(1975年『有田皿山の制度と生活』)。これによって、陶器(唐津焼)と磁器(初期伊万里)を並行して焼いていた有田の窯場から陶器の生産が消え、磁器だけが大量に作られるようになります。
1653年(承応2年)にはオランダ連合東インド会社が長崎から薬瓶(ガリポット)2200個を積み出し、海外への輸出が始まったという記録があります。それまでは1650年から1653年を肥前磁器の海外輸出の始まりとしてきましたが、山脇悌二郎氏は、1647年(正保4年)に長崎からシャム(タイ)経由でカンボジアへ向かう一艘の中国船が「粗製の磁器百七十四俵」を積んでいたというオランダの記録を発見し、1653年と見なしています(1988年『有田町史 商業編Ⅰ』)。
1656年(清・順治13年)の海禁令によって、中国大陸からの磁器輸出ができなくなりました。その頃、肥前磁器はインドネシア、ベトナムなど東南アジアまで中国船によって運ばれていました。オランダ人の眼には肥前磁器は粗製品と映っていたようですが、そうした中国船の肥前磁器の輸出に注目したのが、オランダ連合東インド会社です。オランダ連合東インド会社は早くから台湾に商館を置いて中国磁器を購入し、それを長崎の商館に送り利益を上げていました。1959年(万治2年)バタビア(現・ジャカルタ)向けに白磁染付のコーヒー碗の類5万7600個の注文の記録があり、また赤絵の瓶50個がイエメンのモカに輸出されるなど、輸出の種類および量が急激に増大します。この年から1644年頃にかけて、毎年4、5万個の肥前磁器がオランダ連合東インド会社によって運びだされています。こうした輸出品の大半は染付磁器であったと言われています。中国・景徳鎮磁器(写真の「青花花鳥文大皿」参照)を写した輸出伊万里を代表する作品が芙蓉手(ふようで)意匠の染付大皿(写真の「染付山水図大鉢」参照)です。芙蓉手という名称は日本の茶人が付けたものですが、ヨーロッパでは「カラックボースレン」「カラックウエア」と呼ばれています。