日本初の磁器の誕生
日本の磁器は、1610年代の中頃、有田(現在の佐賀県有田町)で誕生しました。磁器すなわち伊万里焼のはじまりは、通説によれば、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592~1603)によって連れて来られた朝鮮人陶工たちによって始められたと言われています。朝鮮半島から帰化した陶工の中に、李参平(りさんぺい)という陶工がいて、彼が泉山(いずみやま)に磁器の原料となる白磁鉱(長石)を発見し、上白川天狗谷ではじめて磁器を焼成したと伝えられています。しかし、今日では、古窯跡の発掘調査が進み、元和2年以前、慶長時代にすでに磁器が焼成されていたと推定されています。初期の磁器は唐津のやきものと共に焼成されていたのです。 やきもの曼荼羅[32]日本のやきもの14 唐津(其の八)で、「唐津焼は、見た目は陶器だが、本質的な部分は磁器である」と書いたことを思い出してください。
朝鮮人陶工、李参平とは
李参平(?~1655)は、桃山から江戸前期に活躍した肥前の陶工です。一般には、伊万里焼(磁器)の創始者として知られています。朝鮮半島の金江の出身と伝えられ、日本名を金ヶ江三兵衛と称しました。1656年(明暦2年)の「多久邑主(たくゆうしゅ)旧記」には、「鍋島藩初代藩主鍋島直茂が慶長三年(1598)慶長の役から帰陣する際、手先となって働いていた李参平を日本に招致し、配下の多久長門守安順(やすとし)に預けおいた。李参平は朝鮮でやきものを手掛けていたため、安順の指示で陶業の準備にかかった。藩内の陶土を探査した結果、有田町に白磁鉱石を産出する泉山を発見し、有田町上白川に居を構え、天狗谷に窯を開いた」とあります。鍋島内庫所所蔵の「皿山金ヶ江参兵衛高麗ゟ罷越候書立」には、磁器の焼成に成功したのは「丙辰(元和2年)」であったことを李参平自らが記しているそうです。また、鍋島藩の支藩である多久藩の文書に収められた「金ヶ江家釜焼系図」には、李参平が「明暦元年八月」に没したことが記されています。
伊万里焼の名称について
伊万里焼とは、佐賀県西松浦郡有田町を中心とする九州西部の肥前地方で焼かれた磁器の総称で、その製品の多くが有田の北方に位置する伊万里港から出荷されたため、伊万里焼と呼ばれるようになりました。今日では一般的に有田焼と呼ばれていますが、学術的には肥前磁器の名称も使われています。
伊万里焼の名称が最初に記録上に現れるのは、京都の俳諧師・松江重頼が1638年(寛永15年)に書いた『毛吹草』の「唐津今利之焼物」や、京都鹿苑寺の住職・鳳林和尚の日記『隔蓂記』における1639年(寛永16年)の「今利焼藤実染漬(そめつけ)之香合」などの文章です。このことから1630年代には、伊万里焼が京都に流通していたことが分かります。この頃、京都の公家の間では伊万里焼が重宝されていたようです。
伊万里焼は中国陶器(古染付や祥瑞)に代わるものとして、短期間のうちに全国に広まりました。近年、新潟や山形からたくさんの古伊万里が発見されました。北前船は、江戸・大坂・西国方面への上りにはニシンをはじめ海産物を積み、下りには米や生活物資などを運びました。伊万里焼もその荷物のひとつだったのでしょう。山形を旅したとき、米沢から紅花を積み最上川を下り、酒田では米を積み込んだと聞きました。そして、山形の豪農の元には古伊万里が運ばれました。
初期伊万里と古染付
1610年代に日本初の磁器が誕生してから、1640年代頃に色絵磁器が誕生するまでの30年余りに生産された染付を中心とする磁器を、一般に初期伊万里と呼びます。初期伊万里には、染付の他、青磁、銹釉(さびゆう)があります。初期の発達段階のやきものですから、大らかで溌溂とした作行を特徴としています。器胎は厚く、やや青味がかった釉には細かい貫入(かんにゅう)が見られますが、そうした技術の未熟さを越えた大らかな力強さや、器肌に独特の温かみが感じられるのが特徴です。
景徳鎮窯の古染付と伊万里焼の初期伊万里染付とは、文様が一致し、吹墨の技法が共通しています。写真の「初期伊万里吹墨染付月兎文七寸皿」が、そのよい実例です。古染付は当時の中国で広く民間の日常容器として使用されていたものですが、日本にも輸出され舶来の高級な陶磁器として大事に伝えられました。なかには日本からの発注でなければあり得ない図柄の作品もありますが、古伊万里には古染付の影響が大きく見られます。写真の「明古染付人物文五寸皿」は、古伊万里にも見られる人物図です。
初期伊万里は、素地に直接施釉(生掛け)を行い、写真でも解るように、高台は雑な削りで、肉取りの厚い素朴な輪高台で、畳付き(高台の底部)には砂が付着しています。古染付と初期伊万里の高台を比較してみてください。初期伊万里の特徴ともいうべきざっくりとした作風を楽しむというのは、むしろ陶器の鑑賞に近いかもしれません。初期伊万里の器種は、碗、皿、鉢、徳利、丸壺といった日常の器皿が大半を占めますが、茶碗、香炉、水指、花入、向付、懐石鉢などの茶道具もあり、古染付と同様の器種構成となっています。また、染付で描かれる文様は、古染付、中国絵画、日本の文様からなり、多くは山水・花鳥・人物など中国様式の図で占められていて、初期伊万里の染付が基本的に中国趣味を基調としていることを示しています。古染付の好きな人は、初期伊万里も好きな人が多い理由も分かるような気がします。