やきもの曼荼羅[1]料理と器 旬を味わう日本料理

著者:森孝一 プロフィールページ

「和食」のユネスコ無形文化遺産登録と、その背景

 2013年12月に「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。それを機に、世界中から和食への関心が高まっています。和食が無形文化遺産として登録されたといっても、「寿司」「天ぷら」「鰻」といった、料理そのものが登録されたわけではありません。農林水産省のホームページによりますと、

南北に長く、四季が明確な日本には多様で豊かな自然があり、そこで生まれた食文化もまた、これに寄り添うように育まれてきました。このような、「自然を尊ぶ」という日本人の気質に基づいた「食」に関する「習わし」を、「和食;日本人の伝統的な食文化」と題して、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。

とあります。すなわち、ユネスコ文化遺産とは、自然や四季と調和した独自性のある日本の食文化に対して評価されたもので、裏を返せば、自然や四季と調和した食文化が、日本人の食生活の中から段々失われつつある時代を予告しているのかもしれません。
 原宿に「重よし」という季節の料理を出すお店がありますが、店主の佐藤さんによれば、「旬のイワシはマグロよりもうまい」と言います。ちなみに、マイワシの10センチ以下のものは6月頃が美味で、13センチ以上のものは8月から10月にかけて脂がのりうまい。高額なものだけが美味しいわけではなく、旬を味わうことが贅沢なのだと思います。

御膳の定型化が器の寸法を決定

 さて、日本に禅宗が伝わったのは鎌倉時代ですが、室町時代には幕府の保護の下に発展し、精進料理が広まります。精進料理は昆布や椎茸などから出し汁をとり、野菜を中心に、豆腐、コンニャク、浜納豆、ひじきといった食材を使います。その調理法の基本は、煮る、焼く、蒸す、揚げる、和えるで、味付けがしっかりしているのが特徴です。
 みそ、しょうゆなどの発酵食品が発達し、日本料理の膳椀形式が定型化したのも室町時代のことです。それが、庶民の生活までに広がったのは江戸時代中期です。桃山時代にもっとも優れた器が誕生した背景には、茶の湯の成立が大きく関係します。禅寺の本膳では漆器が使用されますが、茶の湯の懐石では折敷(おしき)、すなわち足のない平膳が使われます。この折敷の手前には「はん(飯椀)」と「汁(汁椀)」を置き、その向う側に置かれたので、「向附(むこうつけ)」と呼ばれました。いわゆる小鉢のことですが、この向附には魚介類をなますや昆布締めにしたもの、和えものが盛られます。以下の写真の平膳の中の向附は、中里太亀氏作「唐津南蛮割山椒向附」で、いかにも懐石の器を伝えています。

中里太亀氏作「唐津南蛮割山椒向附」(写真・柿傳ギャラリー提供)

 また、茶の湯の懐石の器として誕生したものに、織部焼の「手付鉢」があります。手付鉢は盛りつけがしにくいだけでなく、取り扱う上でも決して実用的ではありません。しかし、盛り付けると料理に不思議な緊張感が生まれます。手付鉢は、日常の器としては不要なものですが、茶の湯という非日常の空間で使用されるために誕生した懐石の器ではないかと、私は思っています。以下の写真は岡本作礼氏作「朝鮮唐津四方手付鉢」ですが、織部風の朝鮮唐津です。

岡本作礼氏作「朝鮮唐津四方手付鉢」(写真・柿傳ギャラリー提供)

季節感を大切にする日本料理と器

「鍋島色絵紅葉流水文皿」(径20.2センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵)

 料理屋で出される会席料理は、本膳五品、二の膳二品、三の膳一品というように分けて配膳されますが、原則として膳は引かないので、食器は最後までその場に置かれます。そのため、食べた後もそこに絵や模様のあるものが好んで使用されました。料理は舌だけでなく、目でも味わうといわれますが、食べ終わった後でも美しく見せるのが日本料理の器です。そのために、四季の移ろいや慶事を表したさまざまな文様、形態の器が誕生しました。
 恐らく、世界で一番器の種類が多いのが日本料理だと思います。小皿は普通四寸(12.1センチ)以下のものを言います。中皿は七寸(21.2センチ)以下のもの、七寸以上のものを大皿と言います。写真の「鍋島色絵紅葉流水文皿」(径20.2センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵)は中皿で、「鍋島色絵水仙図皿」(径34.0センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵)は大皿の見本です。手で触ったり、口を付けたりする日本料理は器にとっては、器の感触とともに寸法も大切な要素になります。この寸法は、いまでも日本料理の器の基本の寸法となっています。

「鍋島色絵水仙図皿」(径34.0センチ 福岡東洋陶磁美術館蔵)

生活スタイルの変遷と器

 江戸時代の食事は、銘々膳の上に飯碗、汁椀、煮物を盛った平碗、香の物の小皿などが載っています。この銘々膳から折り畳み式の脚のついたちゃぶ台に変わったのは1887年(明治20年)年以降のことですが、一般に普及するのは大正から昭和にかけてで、現在のような洋風のテーブルに変わったのは、1960年代以降のことです。日本経済の高度成長に伴い、食生活の様式化が進み、器も洋風のものが多くなりました。テレビドラマで小林亜星さんが扮(ふん)する寺内貫太郎が、怒り出してちゃぶ台をひっくり返えすシーンが懐かしく思い出されます。和食がユネスコの文化遺産に登録されましたが、料理と器は切っても切れない関係にあります。何がグローバルなのか、料理と器の関係について、真剣に考える時期がきているのかもしれません。

優れた料理が作られた時代には、優れた器が作られた

 優れた料理が作られた時代には、優れた器が作られました。日本陶芸史上もっとも優れた食器が誕生したのは、桃山時代から江戸時代中期にかけてです。それ以降の話をするとなれば、それは北大路魯山人でしょう。今では知らない人がいないほど、その名は有名ですが、彼は「食器は料理の着物」と言って、器に特にこだわりました。

 今年は、その魯山人が亡くなって60年にあたります。ちょうど「没後60年 北大路魯山人 古典復興 現代陶芸をひらく」展が、千葉市美術館(7月2日~8月25日)、滋賀県率陶芸の森 陶芸館(9月14日~12月1日)を巡回しています。魯山人については次回の連載で触れます。