やきもの曼荼羅[67]日本のやきもの49 萬古焼(二)

古萬古 青釉阿蘭陀字文鉢

古萬古 青釉阿蘭陀字文鉢 高10.6センチ 口径22.0センチ 底径9.2センチ パラミタミュージアム所蔵

 鉢外面の口辺の下にはオランダ語で金文字が綴られ、内面には綺麗な青釉が掛かっています。金文字は「MEN MAT LEVEN TE EETEN」(人は食べるために生きねばならぬ)とオランダ語で綴られています。内箱蓋表には「阿蘭陀焼丼 壱 赤繪菓子鉢 壱 染付八角丼 壱 東武小梅村萬古製」とあり、江戸小梅窯の製品であることが分かります。

江戸小梅焼と安達新兵衛

 江戸小梅窯は、宝暦年間(1751~63)に開窯し、桑名から萬古舘次郎という工人を呼び寄せ、原料陶土も桑名から運んで焼かれました。主に呉須赤絵風の陶器などが多かったようです。1777年(安永6)弄山歿後は手代の安達新兵衛を中心として運営され、1786年(天明6)十代将軍家治、その後の十一代将軍家斉の台覧(たいかん、皇族など高貴な人が見ること)がある安永・天明頃には最盛期を迎えます。

 江戸小梅窯の作品は、「青釉阿蘭陀字文鉢」(パラミタミュージアム蔵)や「色絵捩文酒器」(パラミタミュージアム蔵)、「青九谷写花文鉢」(徴古館蔵)などが存在します。「青九谷写花文鉢」の箱書には「江戸焼萬古可し記」とあり、この鉢は再興九谷焼の青九谷様の色絵付であり、江戸小梅窯を閉窯した後に同窯にて加賀から来た男により窯焼きが行われたとする伝承を裏付けています。江戸小梅窯の手代・安達新兵衛の作品としては、「牡丹彫文向付」や「緑釉葎文(むぐらもん)吸物碗」(個人蔵)、以下の写真の「信楽写瓢箪水指」(パラミタミュージアム蔵)などが存在します。

 安達新兵衛は竹川記録(*前連載記事参照)によりますと「江戸出店今川橋北詰西側陶器問屋なり 小梅に別荘有り 萬古焼を創製す 公邊御数寄屋御用の命を蒙り年々濃茶薄茶を調達す 但小梅の別荘に窯を築き手代安達新兵衛擔当す故に茶器箱に安達新兵衛の名あり 後弄山夫妻江戸に移る」とあり、「緑釉葎文吸物碗」は安達新兵衛が江戸小梅窯に従事する前の桑名所在時の伊勢小向窯の作品と判断されます。江戸小梅窯は当初の萬古舘治郎から弄山の江戸移住以前に担当者が安達新兵衛に引き継がれていることが知られ、安達新兵衛は弄山歿後も引き続いて江戸小梅窯の手代として担当し、箱書には製作者として表記されている陶工であったと考えられます。

古萬古 信楽写瓢形水指

古萬古 信楽写瓢形水指 高14.8センチ 口径11.8センチ 底径7.5センチ 胴径16.7センチ パラミタミュージアム所蔵

 腰から底面が丸くへら削りされて丸底状を呈しており、内面底部には重ね焼きの目跡が三カ所残されています。また、底部中央には方形枠二行(より平易な表現に)の萬古不易印が捺されています。内箱蓋表には「ひようたむ 水指 安達新兵衛」とあり篆書体萬古印が押され、内箱蓋裏には「槗壽軒」(読み方不明)と書かれています。

江戸のやきものの中の小梅焼

 1603年(慶長8)に征夷大将軍となった徳川家康が幕府を開くと、江戸を政治・経済・文化の中心地にするための本格的に都市計画が開始されます。山の手には諸大名を中心とする武家が住み、日本橋を中心とする下町には商人や職人たちが住みました。都市計画が進む中で、まず必要となるのが家の屋根瓦ですが、当時、屋根瓦は高価なため一部の階級での使用に限られていたようです。それが一般庶民にまで奨励され始めるのは、1720年(享保5)八代将軍吉宗が江戸の防火対策のため瓦の使用を進めたからだといわれています。しかし、江戸市中に瓦葺きが増加したのは江戸後期のことです。

 江戸庶民が使用していた日常食器を調べてみますと、美濃系のやきものが多かったようですが、天明の大飢饉(1782~)によって米価が高騰し不況に陥ると、美濃にも不況の波が襲います。肥前の磁器が陶器市場を圧迫したことも原因の一つといわれています。また、生活必需品の薪や炭は日々の暮らしに欠かせないエネルギー源ですが、ガスや電気のない時代ですから、煮炊きをするためには一年中欠かせません。しかし、江戸市中には十分な材木がなかったため、国分寺や八王子あたりの農家に頼っていたといいます。

 山の手に住む大名家の江戸詰めの藩士たちは、参勤交代があるので、妻や子を国許に残しての単身赴任だったようです。そのため江戸では古着屋や古道具屋が繁盛し、外食が盛んであったといいます。話は逸れますが、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれますが、江戸では大火が多かったために火消しの働きぶりが甚だしかったようです。武家の火消しと庶民の火消しに分かれていたので、喧嘩とは火事場での両火消しの争いをいったようです。

 さて、佐藤進三編の『やきもの窯事典』(徳間書店 1967年刊)を見ますと、今戸焼、江戸萬古(小梅焼)、入谷乾山焼、墨田川焼、千代田焼、戸山焼など、江戸市中でもやきものが焼かれていたことが記されています。今戸焼は天正年間(1573~1592)頃、浅草今戸で焼かれたやきもので、年代については詳らかではありませんが、貞享(1684~1684)の頃、白井半七という工人がいて、子孫が業を継いだとあります。主に土製雑器、または人形などを作ったとあります。入谷乾山焼は1731(享保16)年、輪王寺宮公寛法親王の江戸下向に随行して、京の尾形乾山が入谷に居を定め陶器を焼いたことをいいます。その流れが、四代乾山(酒井抱一)、六代乾山(三浦乾也)に繋がります。墨田川焼は1805(文化2)年、江戸墨田川の百花園を佐野菊塢が開設し、酒井抱一所持の乾山伝書の陶法により墨田川の土を取って、都鳥の絵を描き売られたものです。千代田焼は元禄中、五代将軍綱吉の時に、江戸城内吹上に築窯して瀬戸の工人に焼かせたものです。戸山焼は天保年間(1830~43)に、江戸牛込戸山の尾張邸楽々園で、斉荘侯好みの茶器を加藤唐三郎に作られたものです。こうしてみますと、江戸市中での本格的なやきものは、江戸向島の小梅焼だということが出来ます。