石の国・中国
この連載の「中国陶磁(1)やきもの誕生」で、中国は石の国であると書きましたが、石という素材には安定感があり、古代人が石による建造物に永遠性を求めたとしても不思議なことではありません。やきものの本には、石や土という素材の本質に触れたものはありませんが、建築の本には触れたものがあります。山本学治著の『素材と造形の歴史』(鹿島出版会 1966年刊)という本を読んで、私は素材の本質を知りました。石の建造物としては、エジプトのピラミットやギリシアのパルテノンなどが、それを象徴していますが、異民族からの侵入を防ぐために造られた壮大な中国の万里の長城なども、その中に入れてもいいでしょう。
中国には「雲根過影(うんこんかえい)」という言葉があり、大地の石は母なる宇宙の霊気を宿し、石と雲とが有機的に繫がり合うという思想があります。『西遊記』で知られる孫悟空は、石が割れて卵を産み、その卵が風にさらされて一匹の猿が孵(かえ)りました。ある日、限りある命にはかなさを感じて、悟空は不老不死の術を求めて旅に出て、西牛賀洲に住む仙人を探して弟子になります。悟空は、永遠の命を求める訳ですが、こうした話にも「雲根過影」の思想が下地にあります。
地球は岩石で出来ており土も元は石です。そういう意味では、生命は石から生まれて石に帰ると言ってもいいでしょう。しかし、ここでいう土とは、岩石が風化して土となったものではなく、動植物や微生物の遺体や排泄物、あるいは微生物によって分解された腐植といった有機物の入った土(土壌)を指します。そこが、中国と日本との大きな違いです。中国の土(磁土)を高温で焼けば磁器になる理由がそこにあります。
土の国・日本
日本は、国土の3分の2が森林で出来ています。その豊かな緑によって水脈が生まれ、豊かな海(漁場)が育まれます。だから、日本は土の国と言ってもいいでしょう。土という素材は、絶えず変化していくという流動性を内包しています。ゆえに、永遠性を求める中国とは異なり、日本では変化を嗜好(しこう)する文化が形成されました。日本人は自然を家の内に受け入れ、人工の芸術においても自然であることを良しとしました。これは、西洋から見たら不思議なことに違いありません。なぜならば、芸術は人工のものであり、自然はその反対に位置するからです。中国のやきものはシンメトリーで左右対称なのに対して、日本のやきものは左右非対称で歪んでいます。それは、自然の形態がそうであるためです。日本人にとって人工の芸術が自然なのは、身体という自然を通して表現されるからです。それを言語化することはとても難しいことですが、それが身体から生まれてくるという真実は、言語によって伝えなくてはなりません。日本人がモノに内在する自然の形態に逆らわずに造形を表現しようとするのも、そこに真実があるからなのです。そういう意味では、日本の文化はモノと魂の融合によって成り立っているといってもいいでしょう。これこそ、日本民族の悠久の芸術運動であると私は思っています。
重要文化財「猿投灰釉壺」
写真は平安時代・9世紀に愛知県の猿投窯で焼成された重要文化財の「猿投灰釉壺」(福岡市美術館蔵)です。猿投窯は、奈良時代末から平安時代にかけて多くの須恵器を焼いた、日本最大規模の古窯です。この壺は、立ち上がりの低い小さい口頸(こうけい)部、肩の張りを失った球形の胴部、裾張りの強い高台といった端正な器形で、簾(すだれ)状に流れるリズミカルな釉の景色がとても美しい壺です。鑑賞陶器の王道をゆく古美術商が扱ったもので、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左ヱ門の旧蔵品です。今回、この壺を選んだのは、この壺にモノと魂の融合を感じたからです。この壺とよく似た漢方薬の芒硝(ぼうしょう)を入れる「芒硝壺」が、正倉院北倉に伝わっています。その薬壺には扁平(へんぺい)な宝珠形の紐をもつ被せ蓋が伴っているので、「灰釉壺」にも元は同様の蓋が付いていたと想像されます。
なお、「猿投灰釉壺」は、特別展「没後50年 電力王・松永安左エ門の茶」展 2021年10月9日(土)から11月21日(日)まで福岡市美術館にて開催で展示されます。
素材の中に宇宙の摂理がある
ところで、この地球上に存在するすべての生物のDNAの基本構造は、A(アデニン)、T(チミン)、C(シトシン)、G(グアニン)という4つの文字で表される塩基で出来ており、この塩基の配列の仕方で生物の様々な性質が決まるといいます。すべての生物の生命(いのち)は繋がっており、宇宙の法則によって動かされています。21世紀は、この生命を核とした自然との調和の時代であると私は思っています。そう考えると、この世界に存在する文化や思想の違いも、決して理解不可能なことではないと思います。
素材の中に宇宙の摂理があり、その宇宙の摂理に逆らわずにモノを創造しようというのが、日本人の思想です。日本と中国の違いは、いうなれば素材に対する人間の造形的姿勢の相違です。現代の日本では、日本の文化や芸術を語るのでさえ西洋の論理を持って語られます。21世紀は日本の文化が世界に受け入れられる時代であるといわれています。だからこそ、日本の文化や芸術の日本語による思想化が求められるのです。この連載は、中国、韓国、日本のやきものの本質を問い、縄文以来の日本人の自然観と感性について、私なりの方法によるささやかな言語化への試みです。