やきもの曼陀羅[2]料理と器 北大路魯山人(其の一)

    北大路魯山人 (wikipediaから)

    食器は料理の着物

     北大路魯山人は、「陶器だけでは美はわからぬ。あらゆるものの美を知って、それを通して陶器の美もわかる」と語っています。そのいい例が茶の湯でしょう。茶碗一つでは、茶の湯は成立しません。茶の湯は、茶道具を取り合わせることで美の調和を創り出します。そのためには、すべての茶道具を熟知すると共に、広い教養と鋭敏なセンスが肝要です。また、茶の湯という空間を創造するためには寸法が重要になります。心地よい緊張感を生み出すための立体物、懐石の器も茶道具である限り同じです。料理を盛る器であり、季節や空間を演出するための立体物です。

    空間演出家・魯山人

     魯山人が残したものに、現代の料理店のスタイルがあります。今では当たり前になった料理人の白い衣装は魯山人が考案したものです。また、それまでお膳(ぜん)で出していた料理を、テーブルの上に薄いお膳を置いて一品ずつ出すよう考案したのも魯山人だといいます。魯山人の器は料理を盛ると水を得た魚のように生き生きとなります。料理も映えて器も映えるという相互的な関係です。旬の新鮮な食材を全国から調達し、その食材の味を生かした食べ方を提供し、美食家たちの胃袋をつかみました。美味しさや器だけでなく、建築物や景観まで含んだ空間の演出こそ魯山人が目指した美の世界です。器を制作する現代陶芸家の多くが、この魯山人の影響を受けているといっても過言ではありません。しかし、魯山人ほどの多様な経験を持った人はいません。
     空間演出家・魯山人の誕生を考えるとき、まず彼の基本ともいうべき書や篆刻が浮かびます。その習得法は、基本的には「目習い」です。並外れた感性をもって、書でも画でも陶器でも、いいものを見ると驚くべき速さで習得しました。そういう意味では、まさに天才です。

    波乱万丈、幼少期の魯山人

    北大路魯山人生誕地 石標(京都市・上賀茂)(wikipediaから)

     しかし、天才・魯山人の生涯は波乱万丈でした。魯山人は、1873(明治16)年3月23日、京都上賀茂神社の禰宜(ねぎ)の家に生まれました。父・清操(きよあや)は、房次郎(魯山人の本名)が生まれる前年に死去します。一説には、自殺したともいわれていますが、母・登女(とめ)は房次郎を里子に出し、長男を連れて京都を離れます。上賀茂巡査所の服部良知巡査の妻・もんの計らいで、大津坂本の農家に預けられますが、一週間後に服部夫婦が引き取り入籍します。しかし同年、服部良知は失踪、もんも病死します。そこで、服部家の養子・茂精、やす夫妻の手で育てられます。6歳の時に養父・茂精の死去により、やすの実家・一瀬家に預けられますが、養母から虐待を受け、近所の木版師・福田武造、ふさ夫妻に引き取られます。里子に出され、他人の家を転々とする。これが魯山人の幼少期です。

    7歳にして美味に開眼

     魯山人の年譜には、「7歳でおさんどん(台所仕事)を手伝うようになり、猪肉などの美味に開眼する」とあります。猪肉は「やまくじら」と呼ばれ、獣肉の食用を禁じていた時代でも食べられていました。冬の味覚として、みそ仕立ての「牡丹鍋」はとても美味です。懐石「辻留(つじとめ)」の主人・辻嘉一(つじかいち)氏は、著書『御飯の手習い』の中で、魯山人から聞いた話として「お焦げができるくらいに炊くと御飯も美味く炊き上がり、義父母に一等米の味だと褒めてもらえ、しかも自分は美味しいお焦げにありつくことができた」と書いています。御飯は日本人の主食ですから、美味しく炊き上げることは料理の基本です。房次郎は、普通なら捨ててしまうような野菜屑にも美味を発見し、大切にしたといいます。7歳にして、味覚の基本を彷彿とさせるエピソードです。
     魯山人と聞くと、味にうるさく高価な珍味ばかり食べている美食家のイメージが浮かびます。しかし、普段は「冷めた八丁味噌の味噌汁を御飯にかけて食べていた」と聞いて、真似してみたことがあります。八丁味噌は味が濃厚なので冷めても美味しく、改めて魯山人の味覚の確かさを知りました。懐石「辻留」で鮎をいただいたとき、その姿の美しさに見とれたことがあります。清冽な激流に棲む天然の鮎は姿が美しい。その上、川底の石についているケイソウやランソウを食べているので、鮎特有の香気が強くとても美味です。後で「辻留」のご主人にうかがうと、丹波の和知川(わちがわ)の鮎とのことでした。のちに星岡茶寮を開いた魯山人は、夏の料理の中心として、和知川の鮎をわざわざ東京まで汽車で運ばせています。

    魯山人の料理に影響を与えた内貴清兵衛

     青山二郎の「北大路魯山人」という文章を読むと、「それが本音で、頭の上がらない決定的なことを私に教えたのは小林(秀雄)と、この料理の魯山人である」と書いています。「料理の心の師は茶人だ」と語る魯山人に、青山は料理の食べ方を本式に教わります。それは、旬の新鮮な材料を選び、時を移さず食すということでした。
     魯山人にそうした食べ方を教えた一人に、京都の豪商で、木綿問屋「内貴(ないき)」の主人・内貴清兵衛がいます。大正3年、魯山人は、内貴が自分で料理して食すのを見て、料理人を買って出ます。恐らく、内貴は料理屋の料理に食べ飽きていたのでしょう。そして、内貴から美食と美術の双方を学びます。数寄者で美食家であった内貴の許には、富田溪仙、速水御舟、土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰など多くの日本画家たちが集まりました。
     青山は「舌からくる愛情と美感が自然と観念化されてちゃんとした形になって生まれてくる」そこが魯山人の面白さだといいます。さらに、魯山人のやきものについては、「魯山人というのは、もともと料理人なのでね。やきものにかけては、いわば、素人なんだ。自分の作った料理を、いかにもっと美味しく食べるか、お客に食べさせることが出来るか、その要求が、作った料理をならべる器にまで及んで、他人には任せておけなくなったんだ。美味しいものを食べたいという、ただそれだけの、実に単純明瞭な理想がさ、彼のやきものへの夢であり、志である」といい、決して最高の評価はしなかったようです。そして、「いまの陶芸家の作品は魯山人の食器以下なのだから、こと食器に関しては魯山人の独檀場だ」と断言しています。私は、しょうゆ差しや箸置き、湯呑みや酒器など魯山人の小さな器が大好きです。そういうものにも手を抜かないところが、食に通じた魯山人の真骨頂だと思っています。

    三彩汁次
    銀彩箸枕 四
    そめつけ竹徳里 二